JET Streams – 第61号 (2025年度冬号)
クレアコーナー(自治体国際化協会からの記事、お知らせなど)
2025年度の冬号へようこそ!
自治体国際化協会(CLAIR)JETプログラム事業部
いつも JET Streams をお読みいただき、ありがとうございます。
JETプログラム事業部です。
今年の東京の冬は昨年より少し寒く感じられますが、やはり雪が降っても東京ではなかなか積もりませんね。
さて、今号も盛りだくさんの内容でお届けします!
CLAIRからは、2025年11月に開催された JETAA国際会議 のレポートを掲載しています。そのほかにも、JET経験者の皆さまによる多彩な記事がそろっています。
JET終了後に母国へ帰ってからも日本とのつながりを大切にしている方のお話や、二世代にわたるJET経験者のストーリー、そしてJETでの経験が現在のキャリアにどのようにつながっているかを紹介した記事など、読み応えのある内容となっています。
今号の記事が、皆さまにとって楽しく、そして少しでも役立つものとなれば幸いです。
もしご自身のストーリーを JET Streams で共有してみたいと思われましたら、ぜひ以下のリンクをご参照ください。
それでは、春号の JET Streams でまたお会いしましょう!
2025年JETAA国際会議
新たな10年の協働に向けた新鮮な発想
2025年JETAA国際会議(International Meeting:IM)は、2025年11月13日から16日にかけて、東京都内にて開催されました。本会議は、JETAA International(JETAA-I)、JETプログラムの運営に関わる日本の3省庁(文部科学省・外務省・総務省)、および自治体国際化協会(CLAIR)の共催により実施され、JETプログラムを支える関係機関およびJETAA組織間の連携強化と、今後の発展に向けた意見交換を目的としています。
2025年のIMには、世界に広がる約7万人を超えるJETプログラム卒業生コミュニティと54のJETAA支部を代表する20か国からの代表者の58名が参加しました。各国のJETAA代表が一堂に会し、それぞれの活動状況や課題、成功事例を共有するとともに、JETプログラムのさらなる活用と国際交流の推進について活発な議論が行われました。
三省との意見交換会会議期間中、初日・3日目・4日目は主にJETAA-IおよびCLAIRが出席し、JETAA-Iの方針説明に加え、各国代表によるプレゼンテーションが実施されました。各支部からは、地域特性を生かした交流事業、キャリア支援、対日理解促進活動などが紹介され、JETAAネットワークの多様性と可能性が改めて確認される機会となりました。
2日目には、文部科学省・外務省・総務省との意見交換会および歓迎レセプションが開催されました。国内JETAA支部(東京支部・西日本支部)や全国AJET評議員に加え、日本貿易振興機構(JETRO)、国際交流基金(JF)、日本海外教育サービス(JOES)など政府関係機関のオブザーバーも参加し、JETプログラム修了後の人材活用や、JETAAとの協働の可能性について幅広い視点から意見が交わされました。
例年どおり、JETAA-Iは定款改正案や、JETAA-Iの現在および将来の取組を含む複数の説明会を主導しました。また、JETAA-Iと3省庁との間では、在外公館との連携強化の方法や、JETAA支部活動への補助金制度について意見交換が行われました。
覚書を持つローレンス会長および安田理事長一方、今回のIMは、JETプログラムが40周年を迎える節目の年にふさわしく、多くの「初めて」を象徴する会議ともなりました。IM開催前日の11月12日には、自治体国際化協会(CLAIR)の安田充理事長と、JETAA Internationalのローレンス・イニス会長が、初となるCLAIR―JETAA-I共同覚書(MOU)に署名しました。本覚書により、JETプログラムおよびJETプログラム修了者コミュニティのさらなる発展に向けた連携強化が改めて確認されました。
また、今回のIMは、従来3日間で実施されていた日程を4日間に拡大して開催された点も特筆されます。これにより、2日目に新たに実施された「長期奉仕者表彰式」などの重要な追加プログラムに、十分な時間を確保することができました。本式典では、JETプログラム卒業生コミュニティを代表し、5年以上にわたりボランティア活動に尽力してきた7名の卒業生が表彰されました。
さらに、CLAIRとの意見交換会も新設され、事前オリエンテーションの標準化、JETビデオコンテスト、政府提供住宅に関する課題など、多岐にわたるテーマについて活発な議論が行われました。
JETAA-I役員および国代表その集合写真さらに今回のIMでは、各国代表が発表する機会が設けられ、各JETAA支部活動における知見や専門性が共有されました。例えば、JETAA USA支部によるJETプログラム修了者へのキャリア支援の取組に関する発表や、JETAAオーストラリア支部およびJETAAニュージーランド支部による支部間連携に関する講演などが行われました。
また、JETAAスイス支部がIMに初めて参加したことで各国代表の輪が一層広がりました。加えて、JETAAアイルランド支部の再建に向けた進展も見られ、アイルランド人JET経験者が情報収集を目的に参加し、帰国後の支部再建を目指す動きも確認されました。
さらに、2026年にJETプログラム40周年を迎えることを見据え、JETAA-I、CLAIRおよび各国代表は、記念事業に向けた最適な連携方法について協議しました。
本会議は、対面での交流の重要性を改めて示すとともに、プログラム開始から約40年を迎える現在においても、JETプログラム、同窓会コミュニティ、支援組織が持つ多くの新たな構想と熱意を浮き彫りにしました。2025年JETAA国際会議で交わされた活発な議論と築かれたつながりは、JET同窓会コミュニティのみならず、JETプログラム全体のさらなる発展と強化へとつながっていくことでしょう。
JETの向こう(JET経験者からの記事)
人と人をつなぐ糸
着物をまとうことが、私の生き方になった理由
最初の一本の糸
私が初めて着物に袖を通したのは、2012年のことでした。ファッションショーで着物を目にした直後、衝動的にアンティークショップへ駆け込み、自分用の一着を購入したのがきっかけです。
当初は着物を着ることなんて簡単だと思っていました。腕を通して前を合わせ、ひもで結ぶだけのローブのようなものだろう、と。ところがすぐに、着物一式には15点ほどの小物が必要で、相当な練習が必要だという現実を思い知らされました。軽くてシンプルだと思っていたものは、いつの間にか重く、扱いづらい存在になっていたのです。
それでも私は諦めませんでした。というのも、衝動的に着物購入のために母から借りた数百ドルが無駄だったと認めたくなかった、というのが正直な理由です。 こうして私は学び始めました。最初はYouTubeから、次にボストンの着物愛好家から、そして最終的にはJETプログラムで熊本に滞在していた間に、着物学校に通うようになりました。

動きを学ぶということ
着物の着付けを学ぶということは、帯を結ぶことや、腰を「マシュマロのような形」に整えることだけではありません。歩き方、座り方、物の拾い方──日常のあらゆる動作を一から学び直すことでもあります。
私はゆっくり歩くことを覚え、その結果、道端の木々や花に目が向くようになりました。背筋を伸ばして座ることを覚えると、不思議と腰の痛みも軽くなりました。ドアノブの扱い方、水道の使い方、そして公園の汚れたベンチにどう腰掛けるかまで、すべてが学びでした。
着物を着るということは、意識的に行動することを教えてくれます。何をするにも、まず考える。無意識に物事をこなしていた私の生活は、次第に「今ここ」に意識を向けるものへと変わっていきました。それは、日常に静かに織り込まれたマインドフルネスのようなものでした。

布の重み
熊本で着付けを学び始めてすぐに、着物は単なる衣服ではないと気づきました。着物をまとうということは、日本文化をその身にまとうことでもあるのです。時には100年以上前の着物を着ることもあり、そこにはかつてそれを着た人々の歴史が宿っています。その重みを最も強く感じたのは、鹿本高校の卒業式に着物で出席したときでした。濃い色の制服が並ぶ中で、私の明るい着物はひときわ目立っていました。卒業式後、生徒や先生方が集まり、写真を撮り、布地にそっと触れていきました。その瞬間、私ははっきりと感じました。彼らにとって私は、ただ服を着ている人ではなく、自分たちの文化の一部を体現している存在だったのだと。
着物は、実際の重さ以上に重く感じられることがあります。初心者にはその重さに圧倒的されるかもしれません。しかし、時間とともにそれは馴染み、千年以上受け継がれてきた流れの一部であることを思い出させてくれます。伝統は、新しい担い手がそれを引き受けることで生き続けるのです。

伝統と現代のあいだで
着物は、私にとって特別な日の装いではなく、日常着です。仕事にも着ていきます。
もちろん、現代生活においてそれは簡単なことではありません。常に一歩一歩を意識して歩く時間があるとは限らないからです。ゆっくりと丁寧に生きることの素晴らしさと、仕事をクビにならないことのバランスを取る必要がありました。
そのバランスを最も試されたのが、あるJET仲間から「外国人向け・無料着付け教室兼着付けコンテスト」のポスターを見せられたときでした。数か月にわたる猛特訓の末、私は全国大会の舞台で、振袖を5分以内に着付けることに成功しました。この経験は、どんなに伝統的な所作であっても、効率や適応が求められることを教えてくれました。
その後、私は着物の伝統を現代生活に合わせて“曲げる”方法を学びました。歩幅を広げるために裾を工夫し、雨や雪から守る方法を考え、長時間立っていられる靴を選ぶようになりました。
伝統を守ることは大切ですが、変えられないものは守れません。伝統を生かすには、柔軟さが必要なのです。そのことは、私自身の生き方にも柔軟さをもたらしてくれました。

人と人をつなぐ糸
着物が多くの糸で織られているように、着物を着る人たちもまた、互いに結びついています。私は着物を通じて、数えきれないほどの大切な友人と出会いました。ニッチな趣味を持つ人なら、この感覚は分かるでしょう。共通の情熱は、人と人を強く結びつけます。
バスの中で出会った日本のおばあちゃんと交わした会話。「自分で着たの?」と聞かれて「はい」と答えると、ぱっと笑顔が輝く。その瞬間。同じ“着物オタク”に出会ったときの、目の奥がきらりと光るあの表情。
あるいは、私の「ちょっと変わった服装」に惹かれて声をかけてくる見知らぬ人たち。
もし着物がなければ、私はごく普通の人生を送っていたかもしれません。でも、着物を通して、私は世界中に友人の輪を広げてきました。
着物は私を、香り付きの紙に和歌を書いていた平安貴族へ、熊本の着物学校の仲間へ、京都で2時間語り合った古着物店の店主へ、そして家族の形見の着物を初めて身にまとい、涙を流したボストンのクライアントへとつないでくれます。
着物は、これまで着物を着てきたすべての人と、これから着るすべての人を結びます。
だから、もしまだ着物を着たことがないのであれば、ぜひ一度試してみてください。
あなたにも、思いがけない糸がつながるかもしれません。
原点を越えて、未来へ進む
岐阜での1年が切り開いた、20年にわたるグローバルな学び
岐阜県輪之内町の自分のデスクにて岐阜県の農村部でJETとしての生活を始めた最初の週、私は今でも忘れられない人生最大級の失敗をやらかしました。前任のJET参加者から引き継いだ軽自動車に、ガソリンではなく軽油を入れてしまったのです。給油機に書かれた漢字がまだ読めなかったことが原因でした。
来日して間もなく、田舎での生活や周囲のすべてがまだ新鮮で戸惑いの連続だった頃、車はガソリンスタンドの駐車場でガクガクと揺れながら進み、やがて完全に止まってしまいました。1年を通して私の守護天使のような存在だった上司は、仕事を抜けて迎えに来てくれ、後始末を手伝ってくれました。
それは謙虚さと異文化理解を学ぶ最初の集中講座であり、「日本語を早く学ばなければならない」という明確なサインでもありました。あの頃は、小さな失敗の連続と、人々の親切さ、そして同じく着任したALT仲間との笑いに満ちた日々でした。彼らの中には、20年近く経った今でも親しい友人でいてくれる人もいます。
来日1週目に参加した郡上八幡祭りにてこうした失敗と笑い、そして早い段階で築かれたコミュニティが、私のJETでの経験全体の基礎となり、結果としてその後20年に渡る私の職業の方向性を決定づけることになりました。
カナダ・バンクーバーに戻り、ハンズワース・セカンダリー・スクールで教え始めた私は、JETプログラムでの経験が次のステップにどれほど直結していたかをすぐに実感しました。同校には、ノースバンクーバー市の姉妹都市である千葉市の稲毛高校との長年にわたる交流事業がありました。このプログラムは、数十年に及ぶ歴史と文化的なつながりを持つ2つの地域を結ぶものでした。
新しい日本交流プログラムのコーディネーターが必要になった際、手を挙げることに迷いはありませんでした。それは単なる事務的な役割ではなく、岐阜で始まった物語の続きを担うように感じられたからです。
JETプログラムでの経験は、日本文化に対する理解力や感受性、そして柔軟性を私に与えてくれました。それは、生徒たちを初めての日本での没入体験へと導く上で不可欠なものでした。何よりも、国際交流が持つ「人を変える力」への深い信念を育ててくれました。異文化の中で迎え入れられること、言語の壁を越えること、そして文化的没入を通じて成長することを、私は身をもって経験してきたのです。今度は、その体験を生徒たちに届ける番でした。 その後10年間、ハンズワース校と稲毛高校の交流事業は、私の教員としてのキャリア初期を象徴する存在となりました。毎年、ノースバンクーバーから生徒たちを引率して日本各地を訪れ、授業参加や学校行事、ホストファミリーとの交流、日本ならではの文化・歴史的名所を体験しました。一方で、日本の生徒たちもノースバンクーバーを訪れ、地域の家庭に迎え入れられました。

ハンズワース・稲毛交流の一環として、稲毛の生徒たちと

ハンズワース代表団の一員として訪問した際、稲毛高校で歓迎を受けて
私は、交流を通じて国境を越えた友情が生まれ、それが訪問後も長く続いていく様子を何度も目にしました。これらは単なる年1回の行事ではなく、年月や海を越えて続く「関係性」だったのです。
その後、国際教育への関わりはさらに広がり、約15年間、MEI Academyで主任講師兼カリキュラム開発者として勤務しました。ニューヨーク、フィレンツェ、シドニー、スイス・アルプス、北京、ミュンヘンなど、世界各地の高校生留学プログラムを指導しました。日本から遠く離れた場所であっても、文化理解への姿勢や未知の環境で生徒を支える方法など、私が担った役割の根底には常にJETプログラムで学んだことがありました。JETプログラムで広がった世界観が、今度は生徒たちの世界観を育む助けとなったのです。

北京・天安門広場でMEIの生徒たちを指導

スイスアルプスでMEIの生徒たちを指導
現在、私はノースバンクーバー学区の高校の校長として勤務しており、国際教育は今も仕事の中心にあります。学区では毎年数百人の留学生を受け入れており、私の勤務校でも生徒の1割以上が海外出身です。これは、グローバルな学びが日常的に教室を豊かにしていることを実感させてくれます。
現在は直接交流事業を担当してはいませんが、日本との継続的なパートナーシップや訪問事業の支援に携わっています。昨年は、横浜隼人高校の生徒を受け入れたほか、姉妹都市公式訪問として千葉市長と代表団を迎えました。また、千葉北高校・千葉磯辺高校の生徒たちを1週間のホームステイと文化交流で受け入れました。
ハンズワース日本交流プログラムのリードコーディネーターとして京都にてこれらの経験を通して、国際交流は単なる学校行事ではなく、生徒・教員・家庭・自治体の長年の協力によって築かれる「生きたパートナーシップ」だと改めて感じています。それは学校を豊かにし、文化理解を深め、ノースバンクーバーと日本とのつながりを今も力強く保っています。
振り返ると、岐阜での1年間が私にとって大きな転機であったこと、そして何度も日本に戻り、海外を行き来する中で、今の仕事へと歩み続けてこられたことを実感します。JETプログラムは単なる教員派遣ではなく、私の世界観を形づくるものでした。柔軟さ、謙虚さ、好奇心、そしてコミュニティを大切にする心を教えてくれました。そして、異文化交流の力を示し、生徒たちにグローバル・シチズンシップを育む生涯の使命を与えてくれたのです。
今でも、日本から訪問してくる生徒や、初めて海外交流に旅立つカナダの生徒たちを見ると、若きALTだった頃の高揚感と可能性を思い出します。そして、教室でも、MEI Academyでの海外研修でも、校長としての現在の仕事でも、JETプログラムなしにはこの道はなかったと確信しています。
岐阜の田舎のガソリンスタンドでの一つの失敗が、日本での最初の忘れがたい思い出でした。しかし、その後に続いた経験こそが、私のキャリアの方向性を決定づけました。JETプログラムは単なる「1年間の海外生活」ではなく、私の職業的アイデンティティの基盤であり、20年にわたるグローバル教育の歩みを生み出した原動力でした。その影響は今も広がり続け、JETプログラムが架けた橋によってつながった生徒、学校、そして地域社会の中に生き続けています。
日本に来る前に、私が知っておきたかったこと
あなたの「本当の自分」はここにある
日本に来る前に、知っておきたかったことがあります。とてもシンプルですが、人生を変えるほど大切なことでした。それは「本当の自分でいること(オーセンティシティ)」「多様性」「勇気」の3つです。もちろん、思いやりや常識、しっかりとした仕事観、良い指導力、学ぶ姿勢といった基本が前提ではありますが、日本で過ごす上
で、この3つは何よりも重要だと感じています。
オーセンティシティは、「自分が何者かを知ること」から始まります。そして、その自分を受け入れることです。私はこれまで、自分の考えを口にするのをためらってきました。相手が先に話すのを待ち、その言葉に合わせるように自分の意見を述べてきたのです。これはとても「日本的」な振る舞いかもしれません。人と波風を立てず、和を乱さない。しかし、これが行き過ぎることもあります。特に、自分の文化やアイデンティティを表現する場面ではなおさらです。異なる意見や文化、伝統を「対立」や「問題」と混同してはいけません。オーセンティシティとは、声高に主張することではなく、正直であることなのです。
「周囲に合わせなければならない」と、私は思い込んでいました。でも、それは間違いでした。

意見や経験、文化、アイデンティティの多様性は、隠すべきものではありません。それこそが私たちを生き生きとさせるものです。多様性は「良いもの」であり、つまらなさの正反対です。自分自身を分かち合うことは、調和を乱すのではなく、人と人とのつながりを深めます。日本で多様性を分かち合うことは、私たちができる最大の贈り物なのです。
そして「勇気」。それは、自分の本当の姿を表に出す勇気です。誰も見たことのないことを、自分自身を信じてやってみること。恥をかいたり、失敗したりすることを恐れないことです。 私はこのことを、時間をかけて学びました。2014年から2016年まで、JETとして北海道江差町に来て、当初、私は「うまくやるためには溶け込むことが一番だ」と信じていました。礼儀正しく、静かで、文化的に「適切」であること。目立たないように、多くの時間を費やしました。でも、白人である以上、どうしても目立ってしまうのです。それでも私は、日本に対して自分のすべてをさらけ出してはいませんでした。今思えば、信仰や生い立ちといった「自分らしさ」こそが、私が日本に提供できる最も価値あるものだったのです

すべてが変わったのは、もっと自分らしく振る舞うようになってからでした。正直に話し、より深く人と関わり、肩書き以上の自分を見せるようになったときです。そこが転機であり、本当の友情が生まれたのは、その時でした。
同僚のJETたちの姿からも、同じ真実を学びました。特に、ロサンゼルス出身で、フィリピン系とメキシコ系のルーツを持つ友人の存在は印象的でした。彼は自分の文化を薄めるどころか、全力で受け入れていました。食、音楽、言語、ファッションを通じて、多くの生徒や地域の人々が初めて触れる文化の豊かさを共有していたのです。彼を見て学んだのは、日本に貢献する最良の方法は「日本を真似ること」ではなく、「自分自身を丸ごと持ち込むこと」だということでした。特に、「アメリカ人」と聞いて人々が想像する姿と異なるアイデンティティを持つ人にとっては、なおさらです。
皮肉なことに、どれだけ溶け込もうとしても、結局は目立ちます。だからこそ、自分らしく目立てばいいのです。本当の自分は、日本にいていい存在なのです。あなた自身のアイデンティティこそが、最高の贈り物です。 私が話したあるアメリカ人ALTの隣人は、ポットラックパーティー(持ち寄りパーティー)を企画し、祖先にゆかりのある料理を作ることを皆に勧めていました。地域に辛い料理を紹介し、ある時は家族から届いた大量のホットソースを皆に振る舞いました。木製のトルティーヤプレスを持ち込み、一緒にトルティーヤを作ったこともあります。メキシコやフィリピンのルーツについて語り、家族の歴史を共有し、「常に本当の自分でいる」ことを大切にしていました。


私ももっとそうすべきだったと感じています。例えば、日本ではクリスマスやハロウィンなどの西洋文化はよく知られており、共有しやすいものです。しかし、私はユダヤ人としてのルーツを紹介する機会を逃していました。8日間メノラーに火を灯すことや、ユダヤの新年や「木の祝日」といった行事、育った家庭の料理など、自分の一部をもっと伝えることができたはずでした。 私が学んだことは、こうです。日本でも、人生でも、本当の自分でいることは美しいということ。日本で生きるとは、誰か別の人間になることではありません。自分自身をさらけ出すことなのです。オーセンティシティ、多様性、そして勇気をもって生きるとき、より深く、意味のある交流が生まれます。そしてその交流は、日本を離れたあとも、あなたの中に、そして相手の中に、長く残り続けるのです。
JETと歩む、ある家族の多世代にわたる物語
2世代JET
JETプログラムは人生を永遠に変えるものだと、多くの参加者が口をそろえて言うでしょう。しかし私の場合、JETプログラムは人生そのものを背負っていると言っても過言ではありません。母がニューヨークから日本の地方へ移住するという大きな決断をなければ、私は生まれていなかったのです。
1990年代の東京でのあやのご両親20代前半、大学を卒業したばかりの母は、新設されたばかりのJETプログラムの存在を知りました。以前日本を訪れたことのあった母は、再び日本に戻ることができるこのユニークな機会に強く惹かれました。そしてほぼ衝動的に、世界の反対側へ移り住み、栃木県でALT(外国語指導助手)として働くことを決めたのです。その選択が、知らず知らずのうちに、今日の私の家族を形作る一連の出来事の始まりとなりました。
母のALTとしての任期はわずか1年でしたが、幼い私にも、JETプログラムが母に与えた影響の大きさは明らかでした。母は栃木での日々を生き生きと語ってくれました。生徒たちとすぐに築いた絆、地元のおばあちゃんたちに受け入れられ、毎週居酒屋で噂話に加わったこと、そして日本の田舎が持つ孤独と美しさの両面について。
その後、母は東京へ移り、サンダンス映画祭関連の仕事や毎日新聞のコラム執筆など、執筆・映画翻訳の仕事に数年間携わりました。この期間に共通の友人を通じて日本人の父と出会い、結婚し、間もなく東京・吉祥寺で私が生まれました。
しかし国際的な家族には必ず難しい選択が伴います。両親は、母方の家族に近いアメリカで私を育てることを決め、私が2歳のときにカリフォルニアへ移住しました。そこで成長し幼少期を過ごしましたが、カリフォルニア育ちであっても、私のアイデンティティの中核には常に日本のルーツがありました。それはひとえに両親のおかげです。両親は毎年春になると必ず私を日本に連れて行き、祖父母に会わせてくれました。これらの旅は、私の幼少期における鮮明で大切な記憶となっています。祖母の手作り梅干しを口にして顔をしかめたこと、祖父母の家の畳の上を駆け回った感触、満開の桜の美しさ——今でも昨日のことのように思い出せます。
お婆さんが作った浴衣を着るあや両親の思いやりは日常の小さな選択にも表れていました。母が普通のスーパーを通り過ぎて、わざわざ数マイル先の日本食材店まで連れて行ってくれたり、特別な日には浴衣を着せてくれたり。その浴衣が祖母の手作りだと友達に話すと、誇りで胸がいっぱいになったものです。
こうして、私の日系アメリカ人としてのルーツは、人生を通じた一貫したテーマとして私の中に根付きました。この強い引力に導かれ、私はさまざまな形で日本に戻り続けました。ギャップイヤーには沖縄の小さな有機農場でボランティアをし、大学時代には千葉で留学とインターンシップを経験し、日本語学の研究のために日本各地を巡り、そして最終的にはJETプログラム参加者として母の足跡をたどることになりました。
JETであれ他の形であれ、大人になって日本に戻ることは必然だったと思います。しかし母と日本語の先生方の後押しでJETとして来日したことは、人生で最も良い決断の一つだったと確信しています。
祖父母の近くを希望して東京や神奈川を第一志望にしましたが、配属先は広島県庁国際課のCIR(国際交流員)でした。最初は戸惑いもありましたが、すぐにここが自分の居場所だと感じるようになりました。
広島で同僚にお母さんを紹介するあや仕事内容は週ごとに変わり、知事の演説の翻訳、特別支援学校への訪問、外国人住民相談ブースでの通訳など多岐にわたりました。ワクワクしながら仕事に向き合う一方で、カルチャーショックの大きさにも驚き、広島の地域コミュニティや仲間のJETたちとのつながりに支えられながら、ようやく自分の夢を追い始めたという充実感を味わいました。
この経験を通して、私は母がJETプログラムで過ごした日々を何度も思い返しました。今の母と、若き日の母との間に特別な理解と絆を感じられるようになったのです。母を広島に連れていき、私の第二の故郷となったこの地を案内できたことは、今でも最も大切な思い出の一つです。
妹さんに浴衣を着させるお婆さん私たちの家族の物語は今も続いています。今では11歳になった妹も、日本との独自の関係を築き始めています。満開の桜を初めて見たときの私と同じ表情を浮かべたり、蒸し暑い夏の日に初めてかき氷を味わったり、祖母に手作りの浴衣を着させてもらう姿を見るのは、本当に感慨深いことです。
振り返れば、JETプログラムは我が家の道を二度変えました。一度目は、20代の母がニューヨークのアパートで新しいプログラムに挑戦すると決めたとき。二度目は、私自身がその足跡をたどり、自らの旅路を選んだときです。
79,000人以上のJETプログラム経験者一人ひとりが、それぞれ異なる物語を持ち、この特別なグローバルコミュニティへと導かれているのだと思うと胸が躍ります。
もしかすると、妹もいつかJETプログラムに参加し、三世代にわたる物語が生まれるかもしれません。15年後、彼女がこの記事を書いているかどうか、ぜひ確かめてみてください。



