JET Streams – 第56号(2024年春号)
クレアコーナー(自治体国際化協会からの記事・お知らせ)
JETAA(JETAA支部及びJETAA-Iからの記事)
JETの向こう(JET経験者からの記事)
2024年の春号へようこそ!
自治体国際化協会(CLAIR)JETプログラム事業部
いつもJET Streamsを読んでいただきありがとうございます。JETプログラム事業部です。東京では暖かな陽ざしと共に、花々が美しく咲き誇る季節を楽しんでいますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今号では、CLAIRからの最新情報や、JFOODO主催の「冬の北海道・東北 日本食愛好家招へいプログラム」に参加したJET経験者からの貴重な体験レポート、そしてJETAAトリニダード・トバゴ支部会長によるJETAAジャマイカ支部の復活に関する感動的な記事などをお届けします。さらに、2世代のJET参加者の心温まる物語や、食への愛情を通じて日本への帰国を振り返る記事、日本ののどかな田舎で過ごした暮らしを振り返るエッセイなども掲載しています。
今号も、これらの記事が皆さまにとって楽しく有益なものであることを心より願っています。もしご自身のストーリーについても共有を希望される場合は、以下のリンクから詳細をご参照ください:
執筆ガイドライン: 執筆ガイドライン(英日).pdf
記事のプロポーザル提出用: https://forms.office.com/r/51bg1Ab8K1
皆様にとって素晴らしい春と夏になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
JET Streamsアンケート
皆様のご意見をお聞かせください!(JET経験者のみ)
JET Streamsのアンケートにご協力ください!たった4つの質問ですが、皆さんの回答はJET Streamsを向上させるために非常に重要です。
このアンケートは2023年冬号に掲載されましたが、より多くの方からのご回答をいただくため、再募集いたします。
アンケートはこちらからアクセスください。
ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
2024年JET動画コンテスト
190本以上の応募作品を受付!
2024年JET動画コンテストについて、素晴らしいニュースをお届けします。このコンテストには、世界中の才能あるJET経験者および現役JET参加者から、なんと190以上の応募が集まりました!
各動画には、驚くほどのクリエイティビティが詰まっています。JETプログラムが日本の参加者や地域コミュニティに与える深い影響も、見事に表現されています。
魅力的なストーリーや美しい映像が盛りだくさん!ぜひ、以下のリンクから応募作品をチェックして、お気に入りの動画に「いいね!」をしてください。
https://www.youtube.com/hashtag/jetvideocontest2024
選考の結果、13本の応募作品を入選作品とすることに決定しましたので、併せてお知らせします。下記のリンクでご確認ください!
https://jetprogramme.org/videocontest/
各作品が受賞した賞については2024年7月12日に行われる授賞式で発表します。詳細は上記のリンクからご確認ください!
受賞の有無に関わらず、素晴らしい作品を私たちと共有してくださったすべての応募者に心から感謝いたします。
JETプログラム経験者調査
クレアが2023年12月から2024年1月にかけて実施した「JETプログラム経験者調査」には、世界各国から約3,500人のJET経験者が参加し、JETプログラム修了後のキャリアに関するデータを収集できました。
回答者の平均年齢は 41 歳で、多くの人が 1980 年代半ばに生まれました。42か国のJET経験者がアンケートに回答し、その大半はアメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの元ALTです。
回答者は平均で3年間近くJETプログラムに参加し、約80%の回答者は2年間以上参加しました。再任用の割合が高いことは、参加者、任用団体双方の満足度が高いことを示しています。回答者の10%以上が、最大の任用期間である5年間JETとして働きました。また、アンケートに回答したJET経験者は、日本全国47都道府県に配置されていました。
本調査からは、JET経験者のJETプログラム終了後のキャリアについて、興味深い結果が得られました。JETプログラム終了後、どこで働いたかという質問に対して、67%が母国で働いたと答えました。しかし、日本で働き続けたと答えた人が24%と意外に多かったです。現在の居住国について尋ねたところ、72%が「母国」と答え、18%が「日本」と答えました。このことから、約5%のJET経験者は、最初は日本で働き始めたが、最終的には母国に戻っていることがわかります。アンケートに答えたJET経験者の多くが現在も日本に住み、働いているという事実は、元JETプログラム参加者の日本に対する親近感が高い、いわゆる「絆」が強いことを示唆しています。
回答者の45%は民間企業で働いていると答えたが、3分の1以上(37%)は公共企業で働いていると答えました。JETプログラムの素質を考えれば、これは驚くべきことではないかもしれません。現在どの分野で働いているかという質問には、教育分野と答えた人が41%と圧倒的に多かったです。また、13%の回答者は政府や公的機関に勤めていると答えました。このことは、JET経験者のほとんどが、JET プログラムでの外国語指導助手や公務員としての経験をその後のキャリアに生かすことができていることを示唆しています。
アンケートに答えた人の21%が毎日仕事で日本語を使うと答え、これは現在日本で働いている18%より多いです。このことは、JET経験者の多くが、日本国外の日系企業、あるいは日本と日常的にビジネスを行っている外資系企業で働いているという推測につながります。この推測は、さらに19%が現在の仕事で日本語を「時々使う」と答えていることからも強く裏付けられます。つまり、元JETプログラム参加者の約40%は、現在もある程度日本語を使って仕事をしていることになります。JETプログラムには相互利益があることがよくわかります。日本の子どもたちに外国語を「教える」、国際関係の維持・強化に貢献するだけの事業ではありません。JETプログラム参加者にとっては、日本語を「学ぶ」、日本の文化を理解し、日本と一生の絆を作ることでもあります。このことは、回答者の81%が「JETプログラムに参加したことは、私のキャリアに大きなプラスの影響を与えた」という意見に同意していることにも示されています。
世界中の元JET参加者の会 (JETAA) の支部は、JET経験者同士がお互いの、また日本とのつながりを維持するのに役立っています。回答者の39%がJETAA支部の会員であると答え、さらに35%が会員になることに興味があると答えました。クレアはJETAA支部の活動を支援し、元JETプログラム参加者がこの同窓会コミュニティの積極的なメンバーになることを奨励しています。JETAAに関する詳しい情報は、JETAA国際委員会(JETAA International)のウェブサイトをこちらからご覧ください。
クレアキャリア支援事業
現役およびJET経験者限定のキャリア支援
自治体国際化協会(クレア)は、JETプログラム参加者・経験者がキャリアを歩むための貴重なリソースを得ることができるよう、JETプログラム参加者・経験者専用のキャリア支援を提供しています。
2023年度を通して、CLAIRは以下のようなイベントをオンラインと対面式で開催して参りました。また、多くのイベントではJETプログラム経験者も参加できます。キャリアを転換したい方や日本の就職活動について学びたい方々は、ぜひ以下のリンクから詳細をご確認いただき、次回の参加をご検討ください。
2023年度以降においても、全てのJETプログラム経験者に情報を提供していきます。皆様と今年度のイベントでお会いできることを楽しみにしています!
冬の北海道・東北 日本食愛好家招へいプログラム
JET経験者限定の特別なチャンス!
昨年末、クレアからJETプログラム経験者宛てに、日本食や食文化の更なる魅力を発見してもらうという素晴らしいプログラムについてのお知らせがありました。日本食品海外プロモーションセンター(JFOODO)が主催する「冬の北海道・東北 日本食愛好家招へいプログラム」で、JETプログラム経験者を対象に、北海道と東北地方を巡る1週間のフードツアープログラムを行うという内容でした。
2月末に、21名のJETプログラム経験者が北海道と東北に旅立ち、日本料理の極上の味を堪能し、帆立釣りなどの体験に没頭し、地方の魅力を満喫し、SNSでその魅力について情報発信しました。
その中で、参加者の1人であるWendy Ngさんが、プログラムでの自身の体験を以下の記事でご紹介します。JETプログラム経験者に提供される様々な機会について最新情報を得たい方は、CLAIRからのメールをお見逃しなく!
隅田川と東京湾をクルージングする伝統的な和船「屋形船」の上で、21人のJET経験者が沖縄民謡「海の声」に合わせて揺られました。この船上で繰り広げられたのは、冬の北海道・東北 日本食愛好家招へいプログラムの最終日の祝宴でした。このプログラムは、日本貿易振興機構(JETRO)の日本食品海外プロモーションセンター(JFOODO)が主催し、JET経験者向けに特別に企画されたものです。参加者は北日本の冬の味覚を体験し、日本の食と文化をPRすることが目的でした。
この初めての試みであるプログラムは、JFOODOとCLAIRの特別なコラボレーションで実現しました。このプログラムは、JET経験者を日本に招き、日本の食と文化についてさらに学び、その経験を世界に発信することを目的としています。参加者はツアー中に魅力的なソーシャルメディア・コンテンツを作成し、日本の最高の冬の食べ物や名所にスポットライトを当てた写真やビデオを自身のSNSでシェアしました(私のコンテンツはこちら))。このプログラムはメディアの注目を集め、NHKは北海道と岩手でのツアーの模様を報道し、各地方TV局や新聞社など多数のメディアによる報道がなされました。
このプログラムは2024年2月18日に東京での歓迎夕食会から始まりました。オープニングの夜は、6カ国から集まった21人のJET経験者が初めて顔を合わせ、JETのオリエンテーションのような雰囲気でした。自身のJETとJET後の経験について紹介しあいながら、私たちはJETのつながりを感じ、すぐに絆を深めました。私たちのJET期間は合わせて20年以上にわたることがわかりました。
北海道ツアーの最初の行程は、豊浦町のホタテ加工場を訪れることでした。日本のホタテの80%以上が北海道産であり、豊浦町は日本のホタテ養殖の発祥地です。ホタテはミネラル豊富な海水で育ち、伝統的な漁法である「耳吊り」で養殖されます。噴火湾とようら観光協会の田中さんの案内で、教育ツアー、漁師との交流、料理の実演が行われ、新鮮なホタテの刺身や北海道バターで焼いたジューシーなホタテを楽しみました。
JET卒業生たちは「世界ホタテ釣り選手権」の精神に倣って、ホタテ釣りに挑戦しました
プログラムの初日は、「TOYOURA世界ホタテ釣り選手権大会」に参加し、手作りの釣り竿で金属の棒をエサにしてホタテを釣るというエキサイティングなホタテ釣り体験で締めくくられました。
冬は日本の上質な魚介類を堪能するのに最適な季節であり、北海道は新鮮な魚介類を味わうのに最高の目的地です。私たちは午前中に札幌市中央卸売市場の見学ツアーに参加し、マグロの競りを見学し、食品卸売システムの効率性と規模について学びました。この食品ハブで毎日加工される多種多様な魚介類、果物、野菜の量の多さに非常に感銘を受けました。日本の新鮮な魚介類を海から私たちの食卓に届けるために尽力している、勤勉なプロフェッショナル集団にあらためて尊敬の念を抱きました。
ズワイガニのしゃぶしゃぶ、毛ガニ、カニの天ぷらなど、豪華なカニ料理がずらりと並んだ「雪華亭」で、カニをテーマにした全8品の贅沢なディナーを楽しむことができました。もうひとつの食の楽しみは、北海道ワイン㈱の醸造所で開催された限定ランチでした。ミシュランのビブグルマンである「に志づ可」の寿司職人が握るプレミアム寿司が、日本ワインとペアリングして提供されました。寿司とワインの饗宴は非常に感動的であり、食後にはスタンディングオベーションでシェフに感謝の意を表しました。
余市町にあるニッカウイスキーの蒸留所では、歴史的な石造りの建物を見学し、受賞歴のあるウイスキーを試飲する貴重な体験をしました。さらに、ロイズカカオ&チョコレートタウンを訪れ、インタラクティブな「ロイズファームトゥーバー」のチョコレートの旅に没頭し、自分だけのチョコレートバーを作ることができました。
プログラムの次のパートでは、東北地方を訪れました。最初に訪れたのは、牛乳、チーズ、アイスクリームなどで有名な岩手県の小岩井農場でした。国の登録有形文化財に指定されている牧場の建物を見学し、雪を頂いた岩手山を背景に、まきば園やシンボルツリーの桜など、のどかな風景を楽しむことができました。
100杯のわんこそばを食べきった7人の参加者には記念品が贈られました
岩手を離れる前に、伝統的なレストラン「東家」で思い出に残る夕食を楽しみました。多くの人が地元の名物「わんこそば」を初めて食べました。JETグループからの声援と励ましで元気をもらい、7人が100杯のわんこそばを食べるというチャレンジを達成しました!
岩手を離れた後、宮城県に向かいました。冬に日本で最も美しい景色のひとつである、ふわふわの雪に覆われた松島湾を見る貴重な機会を得ました。この絵葉書のような光景を眺めながら、笹の葉の形をした焼きかまぼこを専門に作る老舗、松島蒲鉾本舗の笹かまぼこに舌鼓を打ちました。
冬は牡蠣が一番美味しい季節なので、松島さかな市場で焼き牡蠣のランチを楽しむことができました。宮城県は日本第2位の牡蠣の生産地であり、石巻市漁業協同組合は漁港のガイドツアーを通じて牡蠣養殖の世界を紹介してくれました。海流とミネラルの組み合わせが、プリプリでクリーミーな牡蠣を育てる理想的な環境を作り出します。
川村ファームの舞台裏の見学
川村ファームの3代目オーナーである川村大樹氏にお会いし、仙台和牛が誇る霜降りと赤身の絶妙なバランスを実現するための牛の手入れと肥育の秘訣を教えていただきました。また、「仙台の和牛は日本で唯一、全ての個体がA5ランクに格付けされている」と川村氏より伺いました。その夜、私たちは福島県郡山市の「ステーキハウス ハマ」で鉄板焼きスタイルの最高級和牛ステーキを味わいました。
プログラムの最後には、福島県内の3つの場所を訪れました。まず、相馬市観光協会の遠藤さんに案内していただき、相馬市と松川浦漁港を訪れました。2011年の東日本大震災で津波が沿岸部を襲ったときの住民の体験談や、人々がどのように復興し、地域を再生させてきたかを学びました。トロール漁は人気のある漁業であり、漁師と当局は、消費者がこの地域で獲れるフグなどの魚介類を楽しめるよう、食品安全のためのガイドラインを設けています。
次に、多種多様なイチゴを栽培しているまるなか農園で楽しいイチゴ狩りを楽しみました。最後に訪れたのは、福島の名門酒蔵である笹の川酒造でした。ここでは絶品の日本酒を製造しており、さらには東北最古のウイスキー蒸溜所である安積蒸溜所も運営しています。
日本酒専門店を営む広島JETのグレゴリー・ベックさんにとって、蔵元の山口哲蔵さんとの出会いは旅のハイライトでした。グレゴリーさんは、JETプログラムのおかげで日本で経験できたことに感謝しており、お店はその恩返しであり、日本への愛を分かち合うための手段であると語りました。
キャンディス・スーンさんは、JETで沖縄に滞在していた時に絵を描き始めたシンガポール人アーティストであり、教育者でもあります。彼女は、このプログラムがJETプログラムの第2章のようなものであり、日本をもっと探索し、新しい友人を作ることを楽しんだと語りました。
JFOODOの大曲美樹ディレクターは、JET経験者と一緒に旅行することができ、その経験が目からウロコが落ちるようなものだったと話しました。日本になじみがあり、日本の食や文化への関心が高いJET経験者の反応や感想は、多くの貴重な洞察を提供してくれたと語りました。
このツアーは、JETプログラム同様、日本やJETコミュニティとのつながりを新たにする「一期一会」のユニークな機会でした。JETプログラムは、私や多くのJET経験者にとって人生を変えるものであり、私たちは仕事や個人的な活動を通して日本との絆を深め、日本への愛を広め続けています。JFOODOチームの大曲美樹さん、梅村明歌音さん、そして素晴らしいツアーリーダーの柳田稔さん、通訳の橘川丈仁郎さん、忘れられない経験でいっぱいの素晴らしいプログラムをありがとうございました。
JETAAトリニダードトバゴの再生
再起とコミュニティの道のり
日本映画鑑賞イベント
トリニダードのような日本から遠く離れた島の出身の者にとって、日本に行って生活したり教えたりすることは、火星に移住するようなものです。大国に比べてJET経験者の数が少ないため、JETAAの活動を維持する苦労を想像するのは難しくないと思います。
休止の危機に瀕していたJETAAジャマイカ支部のメンバー数人が結集し、支部に再び命を吹き込むというミッションに着手しました。私たちの道のりは、計画とブレーンストーミング、そしてJETAAジャマイカ支部の若返りを目指した一連のイニシアチブの土台を築くことから始まりました。
寿司作りのワークショップ
私たちは、新たなJET参加者を支援することの重要性を認識していました。そのため、JETプログラムへの参加希望者にJETプログラムへの認識を高めてもらうための特別なイベントを開催しました。魅力的なプレゼンテーションや心のこもった体験談を通して、次世代を担うJET参加者が、自分自身の変革の旅に出発する意欲をかき立てられるよう努めました。また、新たな人生の一歩を自信と安心をもって踏み出すために必要な知識とリソースを提供するため、オリエンテーションを開催しました。こうした活動をとおして、私たちのコミュニティにエンパワーメントと帰属意識が芽生えたのを目の当たりにでき、素晴らしい経験になりました。
しかし、私たちの努力はそれだけに留まりませんでした。私たちは、同窓生同士のつながりを育み、帰属意識を高めることの価値を理解していました。この目的のために、私たちは、旧交を温め、新たな絆を育むために、JET経験者なら誰もが参加できるZoomコールやネットワーキング・ディナーなど、さまざまなイベントを開催しました。これらの集まりは、日本とその文化に対する愛によって結ばれた、私たちのコミュニティ精神の証となりました。
文化の交流と学習の促進のため、私たちは日本文化の豊かさと多様性を紹介する一連のイベントも企画しました。寿司作りのワークショップから日本映画鑑賞会まで、誰もが楽しめるものを提供しました。また、地元の学校にも足を運び、生徒たちに日本の美と伝統を紹介する文化普及活動も行いました。
地域の学校で日本文化について紹介
私たちの努力の積み重ねにより、支部は少しずつ変化を遂げてきました。私たちのイベントへの関心の高まりは、無私の心でボランティアとして活動を率いた少数の幹部と、自治体国際化協会(CLAIR)ニューヨーク事務所からの支援と資金提供の賜物です。
これまでの歩みを振り返って、私たちは深い感謝の念と未来への希望に満たされています。今後とも、私たちのコミュニティを育み、成長させ、末永く続くつながりを育んでいきたいと思います。
世代を超えた出来事
1990年8月の両親
物心ついた時から、私の両親はJETプログラムでの素晴らしい経験について語っていました。アメリカのルイジアナ州出身の母とカナダのオタワ市出身の父は、35年近く前にJETプログラムで出会いました。運命のいたずらで、二人は四国の香川県にある小さな島に配置されることになりました。子どもは自分の両親の出会いのきっかけについて尋ねるものです。私と妹は、両親が外国で出会ったというロマンチックな運命の物語に憧れていました。私自身にも運命的な物語があり、それが二世ALTとしてJETプログラムに参加することになるとは、当時はまだ知りませんでした。
高校卒業後、ロータリー青少年交換プログラムを通じて文化交流に参加しました。デンマークのハザスレウでギャップイヤー(学生が大学への入学前などの時期に、留学やインターンシップ、ボランティアなどの社会体験活動を行うため、大学が猶予期間を与える制度)を過ごしました。この1年が、国際経験や、私の専攻となる国際関係学に興味を抱くきっかけとなりました。その後米国に戻り、両親とともにミシガン州の北部に引っ越しました。専攻は国際関係学。大学最後の年、インターンシップ、ロースクール、ビジネススクールのどれにするか悩んでいたとき、運命的な一日がすべてを変えました。JETプログラムのチラシを偶然見つけたのです。応募締め切りまでは、あと1カ月でした。両親にそのことを話すと、すぐに応募するよう勧められました。
応募して面接を受け、合格しました!しかし、日本への入国はスムーズなものではありませんでした。私は2020年に合格したからです。本来なら2020年9月からJETプログラムに参加するはずだったのに、COVID-19の対策により、出発日が何度も延期されました。最終的には2021年1月に出発する予定でしたが、COVID-19の件数が急増したため、出発の1週間前にキャンセルになりました。私が実際に日本に到着したのは2021年11月でした。誰にとっても不思議な時期でした。東京での1週間のオリエンテーションが、オンライン・オリエンテーションを含む2週間の隔離になりました。しかし、JET参加者としての生活を始める興奮を冷ますものは何もありませんでした。12月1日には新潟に到着し、ALTとしての生活が始まりました。
新潟での初雪
極めて人見知りだった私ですが、ALTとして3年目を迎え、今は4年目の契約にサインしたところです。私が赴任したのは新潟県で最も北に位置する市です。週に3日は中学校で、残りの2日は2つの小学校で働いています。生徒の多くは米農家の子供たちで、ネイティブスピーカーと英語を練習する機会はほとんどありません。JETプログラムは、英語と文化の交流のきっかけを作ることで、この地で実にうまく機能しています。
私がJETに参加しに日本に出発した時に、両親は冗談めかして彼らが日本を訪れることができるよう、私は日本に長く滞在する必要があると言いました。両親は33年前に日本を離れて以来、日本をまた訪れることができていなかったのです。そして2023年の9月、両親は私を訪ねてきました。二人とも日本の北の方に行ったことがなかったので、私の住んでいる地域を探検したいと強調しました。また、私が絶賛する生徒やJTEに会うために、私の働いている学校に1日だけ訪問したいと言いました。
村上市新潟県で、両親の案内をしている学生たち
JTEにこの話を持ちかけたとき、私は生徒たちがあるテーマについてプレゼンテーションを行い、それを私の両親に見せるのだろうと考えました。ところが、JTEは対話型の町歩きツアーを提案してきました。生徒たちは町で人気のある場所を選び、実際にその場所に案内しながら、その場所についてのプレゼンテーションを両親にするのです。それは生徒たちにとって、実用的な英語を練習する素晴らしいアイデアでした。その提案通りに行ったツアーは、生徒にとっても、私の両親にとっても素晴らしい経験になりました。2日間、両親はALTだった時代を思い出すことができ、また、生徒たちは勇気をもって私の両親と一緒にあらゆる英語のスキルを練習することができました。
両親が新潟に来た時
その中で、私の心に強く残っている2つの瞬間があります。ひとつは、私の両親に会ったばかりの少年たちが、チキン、ハッピー、サーモンなど、覚えている英単語を片っ端から挙げていったことです。もうひとつは、もっと心温まるものでした。極端に内気な生徒で、おそらく私が彼が話しているのを聞いたのは片手で数えられるほどの回数だったと思いますが、私の父にぴったりとついて、一日中、決してあきらめることなく精一杯話したり質問したりしていました。多くの生徒にとって、英語の有用性を初めて実感した瞬間だったと思います。生徒たちは私の両親に、学校、家族経営のお店、16世紀の城跡、地域の名物の鮭、数々の歴史ある寺社などについて熱心に教えてくれました。私は生徒たちにも、両親とこの経験を共有できたことにも、大きな誇りをもって見守っていました。空港で両親に別れを告げたとき、2人はすでに次の日本旅行を計画していたと思います。
JETでの経験について両親と話し合ってみると、わかったことがありました。私たちは小さなコミュニティーに住んでいることで恩恵を受けている反面、私の両親の教師としての経験は、それぞれが15校を訪問しており、少し大変だったかもしれないということです。JET プログラムの活用が進み、生徒たちは ALT とより多く交流することで、より多くの恩恵を受けています。しかし、33年の歳月を隔てていても、私たちの経験は根本的に似ています。私たちに思いやりをもって接し、自分の町を誇らしげに見せてくれる親切な地元の人たち、私たちの国についてたくさんの質問をしてくる元気な子供たち、英語と文化が自由に交換される刺激的な教室。JETがALTにとって一期一会の経験であり、関係者全員にとってグローバルな目覚めとなるような大切な機会だということは、今も昔も変わりません。JETプログラムを通じて私たち親子2世代が体験を代わる代わる共有しているような感覚がありました。
自分の夢を見つける
山形で教えるお父・ジョン
私の父、ジョンは1997年から2000年まで山形県でALTを務めていました。私はその間に生まれ、生まれてから数年間を両親とともに山形で過ごしました。両親は大学で知り合ったのですが、父がJETプログラムに参加することになり、二人で日本に移り住んだのです。子供の頃から、父がJETプログラムに参加していたことは知っており、ずっと興味を持っていました。また、私はハーフなので、日本での生活を体験してみたいと思っていましたが、当時はまだ幼かったので、山形での生活についてあまり覚えていませんでした。だから、大学の日本語の授業でJETプログラムの案内があったとき、これは行くしかないと思いました。
和歌山で授業を行う美愛
JETプログラムに参加する前、私は教師になることを考えていましたが、本当に自分に向いているのか不安でした。配属先は、紀美野町という和歌山県の小さな町でした。そこで素晴らしい時間を過ごし、素晴らしい人々に出会ったお陰で、アットホームに感じました。日本での生活を経験し、アメリカでの生活経験を生徒たちにシェアすることができました。日本での生活を通じて、私の情熱は教育にあることに気づきました。特に小学校での教育に魅了され、アメリカに帰国しても教育の世界で活躍したいと考えるようになりました。紀美野町で素晴らしい友人を作り、日本の田舎の静かな環境が心地よかったので、離れるのは寂しい思いもありましたが、新たな学校での活動への期待も胸に抱きながら次の冒険に身を委ねました。
山形でハロウィーンの学校行事での美愛と両親
両親は今でも山形の教育委員会と連絡を取り合っていて、2008年には家族で教育委員会を訪問することができました。姉たちと私は地元の小学校で一日過ごし、日本の小学校がどんなところか体験することができました。また、父がALTをしていたときに住んでいた場所を訪れ、私が人生の最初の数年間を過ごした場所を見ることもできました。私も、紀美野町の教育委員会とつながりを持ち続けたいと思っています。私の母方の家族はまだ日本に住んでいるので、私の家族は時々彼らを訪れます。Covid-19の渡航制限で旅行が難しいなか、家族が私を訪ねてきてくれたのは助かりました。家族が滞在する間、私たちは和歌山を観光し、奈良の祖母のところにも行くことができました。JETに行くきっかけを作ってくれたのは両親だったので、両親とJETの経験を分かち合うことができて本当に嬉しかったです。
今私は、学校に戻って初等教育の修士号を取得中です。5年生のクラスで教えながら、午後は地元の高校のカラーガードチームのコーチをしています。日本で経験したこと、そしてそれが私に教えてくれたことに感謝しています。日本での経験がなければ、今の私はなかったと思います。
マインドフルモーメント
私はケガの影響でカプセルホテルにこもっていました。右膝の痛みは耐え難いものでした。骨と骨の間をガラスの破片が切り裂くような感覚でした。その痛みは、それを乗り越えられると思っていた私のエゴよりも大きかったのです。足を引きずりながら共同浴場に行き、サイクリングジャージとパンツを脱ぎました。しわの深い高齢の男性2人が風呂に浸かっていました。私も一緒に入りました。私たちは山の温泉でピンクの顔をしたサルのように座っていました。お湯は私のまわりで泡立ち、渦を巻き、疲れた足と凝り固まった腰をマッサージしてくれました。30分後、私は這い出て、ローブを着てカプセルに戻りました。
カプセルは、2段に積み上げられた特大の回転式乾燥機のようでした。私はその中に潜り込みました。180キロを18時間で走破したのです。九州の福岡からサイクリングを始め、日本のヘソである岐阜の自宅まで戻るつもりでした。出発してから2日後、私は広島の歓楽街近くのカプセルホテルで療養していました。サイクリングし続けたかったのですが、膝が痛かったのです。精神的には問題なくても、身体は悲鳴を上げていたのです。
翌朝、棺桶のようなカプセルで目覚めたときも、まだ疲れが残っていました。カプセルホテルは塹壕の中でぐっすり眠れる人のためにあります。私のように鍵がガチャガチャ鳴る音やいびき、おしゃべりな酔っぱらいによる騒音ですぐに目が覚めてしまうような睡眠の浅い人のためにあるのではありません。這い出て荷物をまとめ、鎮痛剤2錠を飲んでホテルを出ました。自転車にまたがり、ゆっくりこぎ始めました。膝には刺すような痛みが走りました。
原爆ドームを自転車でゆっくりと通り過ぎました。爆風はドームの皮を剥がし、骨組みの鉄骨をむき出しにしていました。私の魂は、犠牲になった罪のない市民を悼みました。その建物は、周囲にできたピカピカの新都心にそぐわないように見えました。その不釣り合いさは、人間の精神の力、不屈の人間の精神への賛辞です。
私は街から離れた幹線道路をゆっくりとペダルをこぎました。タバコをくわえた老人やプリーツスカートの女子学生たちが私の横を通り過ぎました。自転車に乗ったOLたちは、私を追い越す前にベルで合図をしました。お店が開き、路面電車が線路を疾走します。街はゆっくりと遠ざかり、膝の痛みも引いていきました。私は意識を今この瞬間に集中させ、ペダルを踏むたびに意識を集中させました。次の1マイル、次の1マイルと目標を絞り込んでいきました。1マイルずつ、私は福山まで60マイルを走りました。
息を吸ったり吐いたりするリズムは、脚を上下させる動きと自然に連動します。マントラにはこんな表現があります。「新しい呼吸、新しい瞬間、新しい可能性」。私はマントラを歌いながら、空間の中で自転車をこぎました、自分がどこへ向かっているのかはまったくわかりませんでした。
そしてまた道に迷いました。日本の道路は標識のない迷路のようなもので、国土をつらぬく丘のまわりを小川のように曲がり、枝分かれして都市や町を曲がりくねり、路地に狭まり、時には突然分かれ、時には他の道路と合流し、大きな交差点にこぼれ落ちていました。
丑の修行をモチーフにした焼印とレーザーカット。日本の正座用ベンチのアートワークに使用
静かな山道で分かれ道に差し掛かりました。日は沈んでいました。雨が降ってきました。風が私の袖を引っ張りました。私は自動販売機に立ち寄り、日よけの下でポカリスエットを飲みました。右の道を行くか、左の道を行くか。そんなことはどうでもよかったのです。デール・カーネギーの言葉を借りれば、今私が抱えている唯一の問題は、”正しい考えを選ぶこと “でした。新しい呼吸、新しい瞬間、新しい可能性。雨にも負けず、痛みにも負けず、私は自分が望んでいた場所にいました。
私は冒険談で自分の日記を埋め尽くすため、また、心を鍛錬するために来ました。禅画に描かれた、解脱への道のりの段階を表す若い牛飼いのように、私は牛である自分の心を鍛えようとしました。日本での日々の体験は、その糧となりました。
日本は禅の故郷でした。ある同僚は時折、生徒たちと座禅を組んでいました。ただ座るのです。他の先生や生徒たちは、茶道や華道のような伝統を実践していました。平凡なものの中に完璧さを見出すことは、私が最も好感を持った日本文化の一面でした。
私のアパートはシンプルで家具もまばらでした。禅のような生活をしました。気を散らすものはほとんどありませんでした。ミニマリズムを取り入れ、毎日マインドフルネスを実践しました。布団から起き上がると、自分の体の優雅さと柔軟性に驚きました。シーツの粗い目に手を伸ばしました。部屋の中を循環する涼しい風を感じ、床にパズルのピースのように並べられた畳の草のような匂いに気づきました。その場にいればいるほど、その瞬間を楽しむことができました。バルコニーの手すりに仲良くなったカラスがとまるのを眺めながら、私は座ってもの思いにふけりました。この感覚を教室でも味わいたかったのです。
ジョナサンと同僚たち
時折、学校まで歩いて通勤すると、時間の流れがゆっくりに感じました。竹林、放置された巣、クロマツのうろ等の普段気付かないものの美しさが分かりました。ありふれたものの中に、私が想像していた以上の美とパワーがあることがわかり、人生がいかに不思議で素晴らしいものであるかを思い知らされました。
日本では、私の生活はシンプルになっていました。電線にとまったスズメの列や線路から立ち上る蒸気、クモの巣にかかった露、田んぼに映る雲。そういった細部に気づくことが日々の幸せでした。
私は「ホーム」と呼べる場所にいました。そして私の心は禅の庭のようなになったのです。幾度となく戻りたくなるような、やすらぎの場に。
ジョナサン・フェリックスは教育業界で30年のキャリアを持つ。2000年から2002年までJETプログラムのALTとして岐阜県立農林高等学校で教えた。その間、自転車日本一周、四国遍路歩き、琵琶湖や長良川でのカヤックなどを経験。現在はアメリカ・マサチューセッツ州で青少年団体のディレクターを務める。
ブログ:mrfelix.org
日本市場のガイド
デパ地下のスタッフから東京の市場のガイドへ
「自分の至福を追え」。これは私の大学時代の友人数人のマントラであり、作家であり教授であったジョセフ・キャンベル先生の格言です。要するに、自分を幸せにすることをしなさい、ということです。私は、東京の市場で観光客に日本料理と食文化を紹介するという、自分の好きなことをする機会に恵まれています。私が今日まで歩んできた道のりは、千葉県松戸市でALTだった頃にさかのぼります。松戸と上野を結ぶ常磐線に乗って、週末は東京を散策していました。上野駅近くのアメヤ横丁の山手線高架下の雑然とした食べ物屋を探索するのが大好きでした。
JETプログラムに参加した1年間は、言語指導への素晴らしい導入となり、日本語と日本文化に浸ることができました。また、日本の家族と交流できた素晴らしい一年でもありました。ミネソタ州で育った私たちは、家で味噌汁やおにぎり、ほうれん草に鰹節と醤油とごま油をかけたものなど、日本食を食べていました。地元のミネアポリス・セントポール都市圏では、私の母のような戦争花嫁の多くが伝統的な盆踊りグループに参加していた。私も含め、子供たちの多くも踊った後、持ちよりの日本食によるディナーを楽しみました。
Mori no Ikeの日本語学習サマーキャンプ
日本語学習を続けたいと思った私はアメリカに戻り、8回の夏にわたり「Mori no Ike」という日本語学習サマーキャンプで責任者として働きました。Mori no Ikeはミネソタ州の北の森にある日本語と日本文化に浸るサマープログラムです。私はここで、アメリカ人の学生に日本語と日本文化を教えていました。キャンプ参加者は日本語と日本食に没頭しました。 食事の時間は日本語を練習する絶好の機会でした。先生は「ごはんをください」と食べ物を頼む役をしました。滞在が終わるころには、子どもたちは箸の使い方に自信を持ち、たくさんの新しい食べ物に挑戦していました。キャンプのスタッフは、日本語を母国語とする学生と日本語を勉強している大学生で構成されていました。生徒やスタッフの多くはJETプログラムに進みました。今は日本人と結婚し、日本を故郷としている方もいます。
その後、料理とワインの魅力にとりつかれ、料理学校に通い、ニューヨーク市でソムリエの訓練を受けました。しかし、日本の家族の近くにいたいと思うようになり、結局日本に戻ることになりました。
ココ・ファーム・ワイナリー
東京の北にある「ココ・ファーム・ワイナリー」で見習いをし、ワイン業界に関する日本語やワイン造りについて学びました。その後、パークハイアット東京と日本橋高島屋本店のデパ地下でソムリエとして働きました。高島屋で働くうちに、日本を訪れる人たちに日本料理と食文化をもっと理解してもらうために本を書きたいと思うようになりました。そうしてできた著書「Food Sake Tokyo」がきっかけとなり、その後、日本料理とその土地の食文化を理解してもらうための市場ツアーを行うようになりました。漬物、旬の魚介類、日本酒など、日本食に関する多くのトピックを取り上げるには、デパ地下は最適の場所です。
当時築地市場で魚屋をしていた日本人の夫に魚介類について教わり、築地市場のツアーを追加しました。今では、地元のスーパーマーケット、かっぱ橋の道具街、商店街、地元の食材のアンテナショップ、昆布や鰹節、高級フルーツや日本最古の百貨店である三越がある歴史的な日本橋などへのツアーも行っています。
築地市場でツアー中
毎日新しいクライアントと接するので、刺激的な仕事です。クライアントの中には、シェフ、ソムリエ、レストラン経営者、農家など、業界関係者もいらっしゃいます。皆、日本食が大好きで、より深い理解を求める好奇心旺盛な方々です。彼らは5つの味覚の1つであるうま味、また味噌、醤油、日本酒、みりんなどの日本の食料品や、デパートの屋上でお弁当を楽しむためのピクニックエリアなどの地元ならではの情報について学び、帰っていきます。また、東京のどこで食べたり飲んだりしたらいいか、または東京以外の旅行先についての質問にも答えます。
PBS、CNN、BBCの番組にも出演しました。ユネスコの無形文化遺産に認定された伝統的な日本料理である「和食」について、他の人たちに理解を深めてもらうことが私の喜びです。観光客の皆さんに和食についてもっと知っていただくためのガイドであることをうれしく思っています。
日本食は世界中で人気があり、観光客が日本を訪れる一番の理由でもあります。ミネソタ州での高校時代、私が昼食に学校に持っていったおにぎりにクラスメートは興味津々でした。今では同窓会で友人たちが、自分の子供たちはお寿司が大好きだと話してくれます。日本料理に携わるには素晴らしい時代です。
JETの最高の贈り物のひとつは、同僚の先生方やその年に日本で出会った人たちと築いた友情です。今でも多くの人たちと連絡を取り合っています。また、JETプログラムに参加した友人たちが日本に帰ってきたときに会うのも楽しいです。ある友達は30年ぶりに日本に戻ってきました。彼女の喜びを間近で見ることができてとてもうれしかったです。まだ日本に戻っていない人は、円安の今がチャンスです。日本には、特に日本料理など、楽しめるものがたくさんありますから。