JET Streams – 第59号(2025年春号)
クレアコーナー(自治体国際化協会からの記事、お知らせ)
Beyond JET (Articles from former JETs)
2025年の春号へようこそ!
自治体国際化協会(CLAIR)JETプログラム事業部
いつもJET Streamsをお読みいただき、ありがとうございます。JETプログラム事業部です。東京では春の訪れとともに暖かい日が続き、街には色とりどりの花が咲き始めています。🌸
今号では、CLAIRが2024年度を通して行ってきた、JETプログラムのキャリア支援についてご紹介します。2月に開催されたJETプログラムキャリアフェアの様子もお届けしますので、ぜひご覧ください。
また、特別企画として、総務省より「地域おこし協力隊」の紹介もあります。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、実は外国籍の方も地域おこし協力隊として活動できます。今回は、JETプログラムを経験し、現在は、地域おこし協力隊として活躍している方の記事も掲載していますので、興味のある方はぜひチェックしてみてください!
そのほか、JETプログラム経験者の様々なストーリーも満載です。JETプログラムでの経験や、それがどのように現在のキャリアに繋がっているのかなど、興味深い記事が沢山あります。
今号も、皆様にとって楽しく、役立つ内容になれば嬉しいです!
もしご自身のストーリーについても共有を希望される場合は、以下のリンクから詳細をご参照ください:
皆様にとって素晴らしい春と夏になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
また夏号のJET Streamsで会いましょう!
JETプログラムキャリア支援事業
JET参加者及び経験者向けのキャリア支援
自治体国際化協会(クレア)は、JETプログラム参加者・経験者がキャリアを歩むための貴重な機会得ることができるよう、JETプログラム参加者・経験者専用のキャリア支援を提供しています。
2024年度を通して、CLAIRは以下のようなイベントをオンラインと対面式で開催して参りました。また、イベントにの多くは、JETプログラム経験者も参加できます。キャリアを転換したい方や日本の就職活動について学びたい方は、以下のリンクから詳細をご確認いただき、ぜひ次回の参加をご検討ください。
皆様と2025年度のイベントでお会いできることを楽しみにしています!
地域おこし協力隊とJETプログラム
地方で活躍するJETプログラム経験者
日本の地方部には、美しい自然、伝統的な文化、地域に根ざしたコミュニティなど、東京や大阪などの大都会では味わえない地方ならでは魅力があります。一方で、こうした地方部では、人口減少と高齢化が急速に進んでおり、地域の暮らしやコミュニティを維持するための担い手の確保が課題となっています。こうした地方部に都市部から移住し、地域活性化に取り組みながら、定住を目指すのが、地域おこし協力隊です。
地域おこし協力隊は、国ではなく、各自治体がそれぞれのニーズに応じて自ら募集します。自治体に採用された地域おこし協力隊は、その自治体に実際に居住し、自治体や地域住民と連携して地域協力活動に取り組む必要があります。任期は概ね1年から3年以内とされており、任期終了後にはその地域に定住することが期待されます。地域協力活動の内容は幅広く、地域の農産物を活用した特産品の開発や、地域の魅力発信から、高齢者の見守りといったコミュニティ活動や、農林水産業への従事まで、地域力の維持・強化につながる様々な取組が含まれます。
JETプログラムと地域おこし協力隊は、一見関係ないように見えるかもしれませんが、実は、地域おこし協力隊の活動の中には、JETプログラム参加者が持つスキルやノウハウ、経験を生かせるものがあります。例えば、外国からのインバウンドが日本全国で増加する中、地方においても、海外旅行客向けの外国語での情報発信や、観光ツアーの企画・実施ができる人材が必要とされています。他にも、海外消費者向けの商品開発や販路開拓、外国人コミュニティの支援など、実際に様々な分野で、外国籍の方が地域おこし協力隊として活動しています。2024年には、162人の外国籍の方が地域おこし協力隊として活躍しており、そのうち18人がJETプログラム経験者です。
【事例】地域おこし協力隊になったJET経験者
Thomas Whitehead(イギリス出身)
- 鹿児島県鹿児島市 ALT (2018~2023)
- 地域おこし協力隊の活動地域:山形県長井市(2024.7~)
- 活動内容:競技用けん玉生産量が日本一の長井市で、ALTの時に日本の文化として取り組んだけん玉のスキルを活かし、地域のにぎわいの創出、国内外の関係人口の創出に向けた活動を行っている。


Bethany Johnson(カナダ出身)
- 徳島県佐那河内村ALT (2017~2021)
- 地域おこし協力隊の活動地域:徳島県(2021.11~)
- 活動内容:徳島県西部圏域の魅力を掘り起こし、海外に向けて情報発信を行うほか、ALTの経験をいかして観光イベント等での通訳などを行っている。

総務省では、JETプログラム参加者の方をはじめ、外国籍の方を地域おこし協力隊として任用しようとする自治体を支援するため、道府県を対象に、外国籍の方向けの現地視察やマッチングイベントの実施に要する経費や、外国籍の隊員のサポートに係る経費について、財政措置を講じています。また、令和7年度から、JETプログラム終了者は、JETプログラムの活動を行っていたのと同じ地域でそのまま地域おこし協力隊になれるようになりました。地域おこし協力隊は、自然豊かな地方で暮らしたい、自分の言語能力や独自の視点を生かして地域活性化に貢献したい、といった方におすすめの制度です。興味がある方は、ぜひ「地域おこし協力隊ポータルサイト」を御覧ください。
地域おこし協力隊
東京より徳島
私がここに残った理由、そして田舎への愛

佐那河内村で地元の方々と一緒に稲刈り
JETプログラムは、東京のネオンや京都の古寺だけでなく、日本の日常のリアルな姿に触れる機会を提供してくれます。私はこのプログラムを通じて四国・徳島県という場所を知ることができたことに感謝しています。10年以上も日本に興味を持ち続けていましたが、正直なところ、徳島や四国はこれまであまり意識していませんでした。しかし、佐那河内村の山あいで暮らし始めると、その魅力にすぐに引き込まれ、気がつけば4年間も滞在していました。そして、その4年が終わる頃には、「ここに残りたい」という気持ちが強くなっていました。
JETプログラムを終えた後も徳島に残る決断をした理由はたくさんあります。東京や大都市へ移れば仕事の選択肢は広がりますが、それでも留まることを選びました。最も大きな理由はシンプルです。私は徳島が大好きだからです。「徳島で過ごした経験を、日本の他のどこで、いや、世界のどこでも再び味わうことができるだろうか?」と考えたとき、ここを離れる選択肢はありませんでした。しかし、地方で外国人として仕事を見つけることは簡単ではありません。特に英語教育以外の仕事に就くのはさらに難しく、非常に厳しい状況でした。それでも、私は幸運にもタイミングに恵まれ、運よく現在の地域おこし協力隊の一員としての仕事に巡り合い、ようやく自分が本当にやりたかったことを実現できました。今の仕事で、徳島の美しさや文化を世界に発信することを大変嬉しく思っています。
ロンドン・ワールド・トラベル・マーケットで徳島PR
この8年間で、数え切れないほどの素晴らしい経験を重ね、徳島への愛がさらに深まりました。特に来日当初は、地元の祭りやイベントに積極的に参加し、できる限り多くのことに挑戦しました。四国遍路の最初の三寺を巡ったり、熱気あふれる阿波おどりに飛び込んだり、鳴門の渦潮を見下ろしたり、祖谷渓のかずら橋を渡ったり、徳島を知る人もよく知る名所を数多く訪れました。しかし、私はそれ以上に「もっと深徳島を知りたい」と思いました。知られざる山々を探検し、滝つぼで泳ぎ、山間で番茶を摘み、苔むした森を歩き、大川原高原の紫陽花が咲き誇る景色を眺めました。これらの数えきれない冒険が、私を徳島の本当の魅力に導いてくれました。それは、美しい自然だけでなく、温かいコミュニティの存在でもあります。地元の方々からはよく、「私はここで生まれ育ったけど、あなたのほうが徳島のことを知っていますね!」と言われます。
自身の写真展を開催
私は写真や動画制作が趣味なので、その興味を生かして徳島の文化や伝統、イベントを撮影し、記録するようになりました。地元の方々はいつも温かく応援してくれます。徳島に関する英語の情報は非常に少ないため、私の好奇心と探求心から、現在住んでいる西阿波地域の文化や隠れた魅力を紹介するために、SNSで「Hidden Tokushima」を立ち上げました。私の仕事には、コンテンツ制作や動画・写真編集、地元のアクティビティやイベント、観光スポットの紹介が含まれています。また、この地域では外国人が非常に少ないため、英語に関する業務もほとんど私が担当しています。観光パンフレットや商品の翻訳、ツアーの通訳、記事の執筆など、英語での情報発信はとても重要ですが、想像以上に情報が不足しているのが現状です。日本を訪れる外国人観光客が増加する中、SNSや観光サイトを通じて、正確で分かりやすい情報を提供することの重要性を日々実感しています。
プロモーション用に紅葉を撮影中
徳島の愛されマスコットキャラクター、すだちくん
私の目標は、徳島の温かなおもてなしや美しい自然を体験したいと考える活発的な旅行者を呼び込むことです。オンラインでの体験予約が普及し、農家民泊などのユニークなアクティビティを簡単に予約できるようになったにも関わらず、日本を訪れる観光客の多くが東京・京都・大阪に集中してしまうのは残念です。また、西阿波地域では人口の高齢化が進み、伝統文化の存続が危ぶまれています。そのため、観光業は地域活性化の鍵となり、山間部ならではの文化を再び輝かせる重要な役割を果たします。私はこの素晴らしい場所に恩返しをするために、できる限り貢献したいと考えています。
三重町の絆と共生
言葉と笑いを通じて育まれる生涯の絆
三重町(みえまち)は、大分県豊後大野市の南部に位置する小さな町です。山々に囲まれ、小さな田んぼが点在するこの魅力的な町は、曲がりくねった道と温かい人々に包まれ、まるで時が止まったかのような静けさがあります。私はこの三重町を約5年間「故郷」と呼びました。そこでの生活は、これまで経験したことのないほどの地域の温かさに満ちていました。毎週水曜日の夜、私たちは地元の市役所の一室に集まり、英会話教室(Eikaiwa)を開いていました。

英会話教室のポスター
英会話教室(Eikaiwa)を教えることは私の日常の一部となり、地域の年配の方々と生涯にわたる絆を築くきっかけとなりました。参加者の多くは定年退職者で、海外に住む孫と英語で話したい、あるいは単に頭の回転をよくするために、英語を学びたいと熱心に取り組んでいました。しかし、英会話を特別なものにしていたのは、私たちの交流から生まれる共同体意識と楽しさでした。レッスンはいつも笑いと物語にあふれ、ときには英語のフレーズについて討論することもありました。ディスカッション・リーダーが用意したアクティビティも、いつの間にか思いがけない方向へ進み、さらに楽しい展開になることがよくありました。
一年のハイライトのひとつが、毎年恒例のクリスマスパーティーでした。おばさんやおじさんたちが集まり、日本と西洋の伝統が融合した特別な祝宴を開くのです。小さな教室を飾りつけ、寿司から手作りのケーキまで、みんなが一品ずつ料理を持ち寄りました。しかし、毎年の主役は何といってもアマチュアバンドでした。メンバーは70代、80代の生徒さんたちです。ギター、タンバリン、ハーモニカ、ドラムセットまで持ち込んで、本格的な演奏を披露してくれました。なかでも、ドラム担当の「カーチャン」は当時70代の女性。まるで手の一部のようにスティックを操り、いつも明るくエネルギッシュな姿が、私にとって安心できる存在でした。バンドが演奏するのは、サイモン&ガーファンクルの「Take Me Home, Country Roads」や「スカボロー・フェア」、クリスマスキャロルの「きよしこの夜」や「ジングルベル」などの名曲ばかり。多少の音程のズレもお構いなしの熱演に、最後にはみんなで手を叩いたり、一緒に歌ったりして盛り上がりました。
印象に残っている授業のひとつは、ある何気ない会話の時間でした。仮定の話を練習していたとき、私は「もし宝くじが当たったら、何をしますか?」とクラスのみんなに聞いてみました。最初の答えは、ある女性が「都会に家を買う」、また別の女性が「世界を旅する」と、至って普通のものでした。しかし、少しお茶目な女性の一人が、「宝くじが当たったら、夫と離婚するわ!」と言うと、教室は大爆笑。「私も!」、「やっと静かに自由に過ごせるわ!」と、次々に賛同の声が上がりました。そこから話は深まり、日本の女性たちが直面してきた社会的・経済的な課題へと広がっていきました。二人の女性が、1980年代に子育てをした後の就職がいかに難しかったかを語ってくれました。今は少しずつ状況が改善されているとはいえ、まだまだ道のりは長い、と彼女たちは口をそろえました。
そんな彼女たちは最後に、私に対して恋愛や家庭についての温かいアドバイスをくれました。パートナーとは別に自分の趣味や興味を持つことの大切さ、自分自身を大切にすることを忘れないように、と。そこには気取った雰囲気は一切なく、心を開いて語り合える、安心できる空間がありました。

こたつに座るアソさん
この方々は、私がJETを終えて新しい街に引っ越すときにも、荷造りや引っ越しを手伝ってくれました。中でも、宮崎県出身のアソさんは、かつて東京の有名なファッションハウスで働いていた方でした。80代になった今でも、髪もメイクも整え、いつも上品な装いを心がけていました。私がほとんど日本語を話せなかった頃、ただ「おはようございます」と挨拶をするだけで、彼女は仕事帰りの私を家に招き入れ、お茶を淹れてくれました。そして、アルバムを取り出し、誇らしげに香港やソウル、マカオ、台湾への旅行の写真を見せてくれました。
また、忘れられない出来事があります。2016年4月、熊本と大分を襲った大地震のときのことです。私は日本に来たばかりで、彼女たちとはまだ一度も会ったことがありませんでした。それでも、地元に最近外国人が引っ越してきたことを知っていた彼女たちは、迷うことなく私のアパートを訪れ、食料や緊急用品、連絡先を持ってきてくれました。「困ったことがあったら、いつでも頼ってね」と言いながら。そのとき、彼女たちはまるで昔からの友人のように私を迎え入れてくれたのです。
日本での暮らしと言えば、東京や京都のような都市を思い浮かべる人が多いかもしれません。でも、三重町のような小さな村での生活と英会話教室での時間は、私にとって何にも代えがたい、かけがえのない経験でした。英会話教室は単なる英語を学ぶ場ではなく、地域の人々が集い、笑いが響き、人の温かさがあふれる場所でした。この経験、そしてここで出会った人々との絆を、私は一生忘れることはないでしょう。
真っ白なキャンバスからのスタート
芸術が地域コミュニティとつながる架け橋となる
引っ越しは簡単ではありません。真っ白なキャンバスのように、ゼロから新しい人生を始めることも決して容易ではありません。
私の人生にはずっと芸術が寄り添ってきました。文章を書くこと、ポスターをデザインすること、さらには地元モントリオールの大学のラジオ局でDJとして音楽をかけることまで、さまざまな形で関わってきました。そこで素晴らしい友人たちと出会い、大切な思い出をたくさん作ることができました。だからこそ、日本に渡るという大きな決断をしたときは不安でいっぱいでしたが、それと同時に「どんな可能性があるのだろう」と胸を躍らせてもいました。しかし、JETプログラムのALTとして過ごした年月の中で、芸術が次第にコミュニティを支えあう入り口になっていくとは、当時の私は想像もしていませんでした。
2016年に宮城県の塩竈市に引っ越した際、孤独感やホームシックを避けるために、自分が所属できるコミュニティを探すことが重要な課題でした。そこで、プログラムの先輩たちに連絡を取り、塩竈市の歴史的な街並みにある塩竈杉村美術館という、アートとコミュニティ活性化の拠点となる美術館を紹介してもらいました。この美術館は、20世紀に東京から宮城県・塩竈市へ移住し、後に成功した画家となった静物画家、杉村潤に捧げられています。
塩竈市の歴史ある本町地区近くにある美術館の外観
私は学校帰りに美術館を訪れ、美術館の中にあるカフェ「談話室」を見つけました。仕事帰りにそのカフェに立ち寄って、家に帰る前にコーヒー休憩をするのが日課になりました。カフェの店主さんやバリスタ、そして美術館のスタッフたちと、アートや文化、日本での生活について楽しくにぎやかに会話を交わすうちに、すぐに打ち解けて仲良くなり、親友になりました。それ以来、授業を終えた後に美術館とカフェにほぼ毎日のように立ち寄るのが私の日常となりました。
美術館のボランティアグループ「JUNBIサポーターズ」のメンバーとして、アートワークショップを行っている様子
そこで多くの時間を過ごした後、私は美術館と先輩の両方から、美術館のボランティアグループ「JUNBIサポーターズ」に参加するように招待されました。加入後は、他のボランティアの皆さんと月に一度、平日の夕方や週末にカフェでお茶やお菓子を囲みながら集まり、美術館のウェブサイトを英語話者や海外からの来館者向けに翻訳作業をしたり、アートに関する会話や活動を楽しんだりしていました。
ある日のボランティアミーティング中、私が教えていた小学生と中学生の生徒たちが、放課後に美術館の前を通りかかり、窓越しに私を見つけて「サットせんせーい! ハーロ~~」と元気に声をかけてくれました。ミーティングにいた皆さんもその声に思わず笑顔になり、一緒に手を振って応えてくれました。私はつい笑ってしまい、ちょっと涙ぐんでしまいました。でもその瞬間、「ここに来て本当によかった」と心から思えたのです。地域の人たちがお互いを大切にし、支え合っている姿を見て、まさにここで「ホーム」を見つけた気がしました。塩竈でのその体験は、私の心に深く刻まれています。
転機が訪れたのは2021年、美術館の学芸員の1人が、共同制作のコミュニティ・アート・プロジェクトに私を誘ってくれたときでした。それは、「勝画楼(しょうがろう)と呼ばれ、かつてよく知られた街の文化的・歴史的空間の失われた記憶を再現し、つなぎ合わせるというものでした。私は、他の著名なアーティストや歴史家、地元の人々とともにフィールドワークを行い、自分たちのオリジナル作品を制作するという貴重な機会を得ました。言葉の壁があったためとても緊張していたのですが、皆の優しさとサポートに深く感動しました。カフェのオーナーも、私の作品をより多くの人に届けるために翻訳を手伝ってくれました。
2021年に制作したミクストメディアの版画作品
学校で生徒のノートやワークシートを読んだりチェックしたりしてインスピレーションを得た私は、生徒の自習ノートを模した研究作品を作ることになりました。それは数週間、塩竈市街地の公共スペースに展示されました。美術館の方々、地元の人々、教師仲間、そしてかつて私が教えた生徒達、教室の枠を超えて私の創造的な可能性を見てくれたすべての人達を見て、私は深く謙虚な気持ちになりました。
それ以来、いくつかのアート・イベントやワークショップ、展覧会を開催してきました。2022年にJETとしての任期が終了し、2024年までに市のALTとして教壇に立つまでに、私は生徒や先生から貰った沢山の感謝の手紙やメッセージに言葉を失いました。私はこれらの手紙を保管し、その後、借りている自分のアートスタジオの壁に飾ることで、皆のおかげでここまでやってこれたことを思い出すようにしました。
2021年に塩竈市中心部で展示された作品
2011年の東日本大震災から長い年月を経て、このコミュニティがいかにたくましく、再出発し、再建しようと懸命に努力してきたか、そしてこの地域の人々がアートを通じていかに創造的な表現方法を見出してきたかを、私は周囲の方々との会話から肌で感じ、深く理解し、感動しました。私は以前から、2016年に私をゼロから迎え入れてくれた彼らの優しさへの感謝の一環として、彼らを支援し、彼らの再建を手伝いたいと思っていました。アートとクリエイティビティの中心地である、ここ塩竈にいられることは、私にとってかけがえのない経験であり、いつも深く感謝しています。
JETプログラムに参加して持ち帰ったものを比喩的に言えば、真っ白なキャンバスとゼロの状態から始めるのは大変なことだが、それを実現するために必要なものを見つける努力をすれば、素晴らしい傑作が描かれることが待っているという事実です。真摯にあなたをサポートしてくれる人達はいるが、それはあなたが周囲を見渡し、手を差し伸べ、あきらめない勇気を得て、初めて実現するものです。自分に合ったリソースを見つければ、素晴らしいものを作ることができます。この格言がどこに存在するかは知らないが、どこに行こうとも、自分のいるコミュニティを愛することに時間を費やせば、コミュニティは10倍になってあなたを愛し、成長をサポートしてくれると私は信じています。
自分のコミュニティを見つけて、それを愛することを学べば、間違いなくコミュニティはこの素晴らしい気持ちを返してくれるでしょう。
それはまさに、真っ白なキャンバスから生み出されたユニークで色彩豊かな芸術作品であり、あなた自身のものとして、振り返り、誇りに思うことができます。そうすれば、決して孤独を感じることはないはずです。
こんなつもり…ではなかった。
コロナ禍で、JETプログラムを通した自己再発見
JET参加前
自分のことをよく理解していると思っていました。
生徒が初めてひらがなで名前を書いた時のあの大きな喜び。自分でキャラ弁を作るときのワクワクする気持ち。愛情をもって接してくれたホストファミリーと別れる時の深い悲しみ。
教師の仕事はすべて生徒たちのためにあります。
非常に難しい仕事ですが、やりがいがあります。
「燃え尽き症候群になりそうだけど、まだ大丈夫。」そう自分に言い聞かせていました。
日本まで後少し。

『時に凍結された水車』 白川郷、300年以上の合掌造り
初めての来日は、三重県での10ケ月間の大学の交換留学プログラムでした。新しい生活にようやく慣れたばかりなのに、あっという間に期間が終わってしまいました。安心感、恋しさ、複雑に絡み合った感情が入り混じる中、タジー(タスマニア州)に帰ることになりました。二度目の来日は愛知県での3週間の教師交換プログラムです。その時にまるでスイッチが入ったように、「また日本に戻って、仕事をしたい」という新たな夢を抱きました。そして、中学生の頃から知っていたJETプログラムへの参加について真剣に考えるようになりました。
当初は、1~2年の気分転換をした後に教育の仕事に戻るつもりでした。
私には教育の知識しかなかったです。
定年まで教師を続けると強い確信がありました。
しかし、新型コロナウイルス感染症が世界中で流行したため、メルボルンは何度も厳しいロックダウンンに見舞われました。
その時、仕事と私生活の境界線がより曖昧になったため、改めて自分と向き合い、これまでの人生の決断を反省するようになりました。
そして、数ケ月後に辞表を提出しました。
さらにその数週間後には、JETプログラムの申請書を提出しました。
「オーストラリアの教師の5人に1人が最初の5年以内に辞める」という統計に自分が含まれるとは思いもしませんでしたが、それが現実でした。
まさか自分がその中に入るとは…
そんなつもりではなかったのですが、それでも計画を実行することに決めました。
コロナ禍で世界中が混乱しても、来日までのスケジュールが遅延しても、メルボルンが6回目のロックダウンに見舞われても。
深夜に荷物と必要な書類(渡航許可証、コロナ陰性証明書、誓約書等)を持って旅立ちました。
盛大な送別会は一切なく、静かなハグとささやきだけでした。
「気を付けて。元気でね。」
そして、オーストラリアのグループ76人がシドニー空港に集合し、日本へむけて出発しました。(皆の予想通り、ビクトリア州出身の私たちは一番髪がボサボサでした。)
During JET
羽田空港に到着すると、長蛇の列、検査、そして長い待ち時間の後、私たちはシャトルバスで2週間の隔離のホテルに送られました。一緒に隔離されていたのはアメリカ、カナダ、フィリピンからの来日者たちでした。2週間目になる頃には、頭がおかしくなりそうな思いでした。メルボルンの最後のロックダウン解除のニュースを見て、友人や家族がとても羨ましくなりましたが、(その日は私の隔離3日目-累積日数262日)残りの期間を耐え忍びました。
「もう256日も隔離生活を送った!追加で7日間も終わった!後もう7日間なんて楽勝だろう。」と思いながら苦笑いしました。
2021年11月1日は待ちに待った日でした。岐阜県行きのグループは、新幹線で品川駅から出発し、岐阜羽島駅に到着しました。その日は秋にも関わらず、湿気が多く、暑くてスーツを着るには不向きな天候でした。私は猛暑が苦手なので、「絶対ここには長く居られない」と感じてしまいました。

『篝火のホタル』 長良川で鵜飼1,300年超えた伝統文化
岐阜県庁では観光国際部観光誘客推進課に配属され、英語を用いた海外観光客向けのSNS(Go Gifuのフェイスブック、インスタグラムのアカウント、Visit Gifuの公式観光ウエブサイト)での情報発信を行い、観光誘客に関する編集・翻訳・通訳を担当しました。つまり英語で岐阜県の魅力を英語でアピールすることが仕事でした。私はこの分野については全くの初心者でした(SNSに関する経験も、興味もありませんでした)が、熱心に勉強しました。担当者、同僚、上司は、素早くて、親切で岐阜県について詳しく教えてくれました。また、私の前任者は優秀な方で、素晴らしい功績を残していました。仕事をするにあたっては、アドバイスも非常に助けとなりました。
岐阜県の豊かな自然、先人から受け継がれてきた伝統と匠の技、人々の暮らしの中に息づく文化や深い歴史について色々な素材を探して、深く学びました。天下分け目の関ヶ原合戦での勇気、郡上踊りの徹夜おどり、白川郷の大切な「結(ユイ)」のつながり、岐阜県のことを知れば知るほど興味が湧きました。そして、県内の出張で訪れる度にますます惹かれていきました。高くそびえる飛騨山脈の見事な山々、濃尾平野の豊かな大地、長良川の清らかな流れなど、岐阜県には一度は訪れるべき美しい自然がたくさんあります。また、地元の人々の温かさと親切さに触れ、何世紀も前から伝わる伝統工芸の技術と自然と共に生きる姿勢にも心打たれました。自然に触れ、ゆっくりとした時間の流れの中で心が和らぎました。時間と心の余裕を持てたため、しっかりと休息を取り、回復することができました。

“『コスモスに秋のワルツ』 今嶺、西岐阜駅行く途中
その後、仕事に慣れていきましたが、コロナ禍で観光業界に深刻な影響があり、最初の1年は多くの困難に直面しました。商談会は主にオンラインで行われ、接続が悪い時は、「マイクがミュートになっています。」というメッセージが流れました。この光景は昨年のリモート授業を思い出させました。また、旅行制限が続いていたため、日本の水際対策や唯一可能だった団体旅行に関する問い合わせを多く受けました。ようやく最初の一年が終わりに近づく頃に、訪日外国客の受け入れが再開されたため、観光業界が本格的に動き始めました。仕事の量は急増しましたが、私の部署はこれに備えていたので、すぐに対応することができました。まるで、全力で走り出すことです。
教育と観光は異なる分野のように見えますが、よく見るといくつかの共通点があります。たとえば、潜在的な訪日観光客に向けてアクティビティや観光地を紹介したり、旅行代理店に新たな観光地を提案したりする業務には、教育の要素が含まれています。そのため、教師として培ったスキルがとても役立ちました。生徒に選択科目として日本語を宣伝したり、オーストラリアと日本の姉妹校訪問を共催したり、保護者面談で生徒の家族と友好的に会話したり、そしてトラブルが発生した際に冷静に対応する経験を今の仕事に活かすことができました。無駄なことは一つもありませんでした。その後、文化交流の授業で地元の子どもたちにオーストラリアのことを教える機会もあり、改めて教育という仕事の楽しさを思い出しました。特に人の学びを助けることです。
『頑張りました!』 全国放送された岐阜県、関市でNHKのど自慢の予選、まさか本戦まで参加するなんて、これもこんなつもりではなかったです!
岐阜県と観光について掘り下げるにつれ、気づかぬうちに自分の中に埋もれていた一部分が再び浮かび上がったように感じました。ネイチャードキュメンタリーや本、セレンゲティ国立公園など……子どもの頃に抱いていた夢や思い出が蘇りました。睡蓮に舞いあがるハチ、蓮の葉を飛び回るテントウムシ、待ち構えているハエトリグモが心に浮かび上がりました。子どもの頃、家の庭で写真を撮りながら、その瞬間が永遠に続くかのように感じ、喜びに満ちました。これらの思い出を何年も思っていませんでしたが、少しずつ記憶を取り戻した。また、私が仕事として選別した写真や、写真家の友人が撮影した写真の美しさを見るたびに深く感動するようになりました。私は、美しい写真を撮る人間に憧れ、どんなに小さなものであっても目に映る驚異を周りの人に見せたいと思っていました。ついには一眼レフカメラの使い方を学び始め、どこに行く時もほぼ毎日持ち歩くようになりました。数年前、友達と話していた時に、「一眼レフを引きずり回すなんてやめとくわ。スマホで十分だよ。」と言っていた自分を思い出し、思わず笑ってしまいました。これも明らかにこんなつもりではなったですね。
3年弱の契約が終了するまでの数ケ月間、私は岐阜県を離れるにはまだ早いと感じていました。その頃には岐阜県の観光は回復の兆しが見えていたので、まだやり遂げていない仕事がたくさんあると考えたためです。本当はここに残りたかったですが、さまざまな不確定要素を考えると現実的に次のステップを考えるべきだと判断しました。引っ越し、就職活動、ビザ更新など多くのことが同時進行で進み、とても大変でしたが、元チームメンバーや友人、家族、そしてJETプログラムからのサポート(キャリアフェアやネットワーキング、SDCなど)に心強く励まされました。そのため、今回の人生の変更はもっと強く耐えられます。世界で最も長いロックダウン体制の中で新しい人生を始めた以前よりも、余裕を持つことができました。
JET終了後
JET終了からすでに一年半が過ぎました。様々なことがありましたが(まあ、人生のあるあるですね。)ようやく落ち着くことができました。そして、観光・旅行業界の仕事で新たなポジションを得たことで、別の立場から岐阜県の素晴らしさを広めることができ、とても嬉しく思っています。
岐阜県にいることで、自然とのつながり、人とのつながり、自分とのつながりを取り戻すことができました。
ここにいるのはただの偶然ではないと強く感じています。
この経験を含め、数えきれないほどのことについて神様に感謝しています。JETプログラムへの参加は、私の人生に信じられないほどの良い変化をもたらしました。
心から感謝しています。
これからもチャンスをつかみ、柔軟な計画を持ち続けたいと思います。
どんなに暑くなっても、岐阜県が大好きです。
ここが私の居場所なのです。
『岐阜県の輝かしい観光チーム』 大変お世話になっております!感謝の気持ちでいっぱい!2024年7月31日に岐阜県庁観光誘客推進課での最終出勤日。

砂漠地帯での日本庭園
伝統と静寂で日本とアリゾナを結ぶ

フェニックス日本親善庭園にある最大の滝

庭園での相撲イベント
JETプログラムで雪深い秋田県に4年間過ごした後、私はアリゾナの砂漠地帯に戻り、日本へ行く前と同様に栄養教育の仕事を再開しました。しかし、心のどこかに虚しさを感じ、日本との繋がりを強く求めるようになりました。日本の文化が恋しく、それを日々の生活にどのように取り入れられるかを模索していたのです。とはいえ、日本に関わる仕事を見つけるのは簡単なことではありませんでした。特に、私の日本語が完璧とは言えなかったため、困難は大きいだろうと感じていました。そうして数年が過ぎ、パンデミックを経て、私は本格的に仕事探しを始めました。そんな時、フェニックス日本親善庭園の求人を見つけました。
当時、私はこの庭園について詳しく知りませんでしたが、まさに理想の職場であることがわかりました。私はエグゼクティブ・アシスタントとしてチームに加わり、園長をサポートすることになりました。フェニックスの中心部に、本格的な日本文化のワークショップを企画・運営し、美しい庭園を管理する文化施設があると知り、驚きました。「鷺鳳園(ろほうえん)」の名で親しまれるフェニックス日本親善庭園は、1980年代後半に姫路市との姉妹都市プロジェクトとして設立されました。その実現には多くの人々の努力が必要でしたが、それ以来、庭園は少しずつ着実に成長してきました。そして、パンデミック後のこの5年間でフェニックスは驚くべき発展を遂げ、庭園を訪れる人も増えました。

湯沢市からの教え子との再会
この庭園は、散策やくつろぎの場として楽しめるだけでなく、日本の職人やアーティストが関わる多彩なプログラムやイベントも開催しています。いけばなや盆栽、茶の湯のワークショップを定期的に実施しており、体験を通じて日本文化に親しむことができます。さらに、お月見や毎年恒例の春祭りなど、日本文化を学びながら参加できる大規模なイベントも年間を通じて開催しています。つい最近では、アリゾナで初めての相撲イベントを園内で実施しました!
私の主な仕事は管理業務ですが、日々日本文化に触れ、同僚と日本語で会話し、庭園のプログラムやサービスの企画に関わることができています。さらに、自分の情熱を注いできた森林浴(しんりんよく)やこけし作りのワークショップを自ら担当する機会にも恵まれました。また、数ヶ月前のお月見祭りでは、思いがけない再会がありました。なんと、秋田で教えていた元生徒に出会ったのです!彼女はASU(アリゾナ州立大学)への交換留学でアメリカに来ており、他の日本人学生グループと一緒に庭園のボランティアに参加していました。湯沢の田舎町からアメリカへ渡り、英語を学び続けている姿を目の当たりにし、世界のつながりの広さを実感しました。そして、私たちが築く一つひとつのつながりが、どれほど貴重なものかを再認識しました。日本と私の故郷アリゾナ州を結ぶこの庭園で働けることに、改めて喜びを感じています。

夜明けの春日灯籠
「砂漠の中の隠れた名所」とも呼ばれるこの庭園は、フェニックスの中心にありながら、まるで別世界のような緑豊かな空間が広がっています。4エーカーの敷地には、大きな滝や錦鯉が泳ぐ池があり、フェニックスで最も緑にあふれた場所の一つです。日本原産の植物は少ないものの、厳しい砂漠の気候に適応した植物を選び、日本庭園の美しさを保っています。すべての植物は、日本の伝統的な剪定技術を用いて丁寧に管理されており、庭師たちは日本の庭園での研修を通じて技術を磨き、庭園文化を継承し続けています。この庭園の象徴の一つが、丹念に剪定された松の木です。日本庭園では黒松がよく使われますが、ここでは黒松がなく、その代わりにアレッポマツを日本の松と同じ手法で形作っています。庭園のキュレーターによると、松の剪定を一人前に任されるまでには、10年もの観察と実践が必要なのだそうです。こうした伝統技術が、何世代にもわたって受け継がれ、今も守られていることに深い感動を覚えます。
この庭園で働くことで、日本文化への情熱を追求しながら、自分自身の居場所を見つけることができました。世界中のさまざまな都市に、日本庭園や姉妹都市交流の拠点があります。あなたの街にも、日本とつながる場所があるかもしれません。JETプログラムを卒業し、日本とのつながりを持ち続けたいと考えている方は、ぜひこうした機会を探してみてください。思いがけない発見があるかもしれませんよ!
