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2021年JET Streams春号

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JET Streams

2021年JET Streams春号

JETAA(元JET参加者の会)
 
JETの向こうに
JETAAジャマイカ支部はジャマイカでのログラム20周年を祝福しました

フラー・ジャネット・ビー・フラー氏、福岡県ALT、2002年~2004年
クリケ・ジャネット氏、宮崎県ALT、2002年~2004年

感動的な回想、お祝いのメッセージ、心のこもった賛辞、そして感動的な音楽が寄せ集められ、JETプログラムとジャマイカの20年間の強固な絆の本質と精神を見事にとらえました。JETAAジャマイカ支部が2020年11月20日にオンラインにて開催した「ジャマイカでの JET プログラム 20 周年式典」は、69人の出席者の心を掴んだ魅力的なイベントとなり、「2020年に20年を祝う」というテーマは、ジャマイカと日本の活発な異文化交流、長く続いている友情、そして両国間で結ばれた強い協力関係を特徴とする20年間を亘る関係を記念するために当支部が選んだふさわしいものでした。

2020年はどう見ても異常な年でした。新型コロナウイルス感染症の世界的流行がもたらしたパンデミックにより、この記念すべき行事を多くの人が集まって祝福することは不可能となりました。ジャマイカでのJET プログラム 20 周年式典は、2020年に予定していた他の様々な活動と同様に、あきらめるしかないと思われましたが、夏の終わりごろ、駐日ジャマイカ大使ショーナ-ケイ・リチャーズ閣下の「この重要な節目を見逃すべきではない」という熱心な主張により、同窓会の疑心暗鬼の気持ちは晴れました。彼女の熱意は周囲に伝播し、気を取り直したJETAAジャマイカ支部のメンバーで構成された委員会は、マーシャ・デニー会長が指揮を執り、在ジャマイカ日本大使館の強力な支援に支えられ、このイベントの企画に挑みました。

20周年式典はオンラインであるだけではなくグローバルなイベントとなりました。興味深く魅力的なプログラムには、次の方々がご出席いただき、長年にわたるJETプログラムの成功について祝辞をいただきました。
・駐日ジャマイカ大使リチャーズ閣下
・在ジャマイカ日本国大使館の藤原聖也特命全権大使
・自治体国際化協会(クレア)の礒部博昭参与
・ジャマイカ教育・青年・情報省のグレース・マクリーン事務次官事務代理

この成功は、少なからずジャマイカが参加国になって以降、母国を代表してきたジャマイカ人の優秀な人材の賜物であると評価されました。ジャマイカや外国に滞在しているJET経験者、日本各地に住んでいる現役JET参加者、そして同窓会の多くの友人たち、関係者やサポーターの方々がご参加くださり、現役JET参加者とJET経験者の20年間にわたる回想を鑑賞しながらオンラインで心の絆を深めました。思い出をたどる映像は、日本を第二のふるさとに選んだ同窓生のパワフルで心に響く歌とともに、夜のプログラムにさらに感傷的な色合いを加えてくれました。このイベントで繰り返されていたテーマは、JETプログラムが各参加者の人生、そして彼らが長年にわたり交流してきた地域コミュニティに与えた重大で大きな影響でした。これは基調講演者のショーン・アーロンズ氏が強調した点でもあります。彼は2000年に初めてJETプログラムという冒険に乗り出した「8人のパイオニア(開拓者)」と名付けられたグループの一員です。

Keynote Speaker Mr. Shawn Aarons

JETAAジャマイカ支部の元会長ショーン・アーロンズ氏。ジャマイカがJETプログラムへの参加から20周年を迎えるオンライン記念式典にて基調講演を行っている様子(2020年11月20日)

ジャマイカ支部はジャマイカに帰国したショーン氏のリーダーシップの下で2000年代の初頭に誕生しました。在ジャマイカ日本大使館の温かい支援に支えられ、長年にわたり成長し、活発になったジャマイカ支部は、毎年様々な活動に取り掛かりました。大学等でのJETプログラムの広報、初等教育、中等教育及び高等教育レベルの学生を対象としたエッセイコンテストやポスターコンテスト、国際海岸クリーンアップデー(International Coastal Cleanup Day)で海岸掃除、そして学校においてリサイクルに積極的に取り組むなどを通じて、JETAAジャマイカ支部は「ジャマイカと日本の間での関心と文化交流を促進する」というモットーに沿って活動してきました。日本の文化について健全な好奇心を持つ多数のジャマイカ人が、一部においてはアニメ及びドラマへの強い好みにより好奇心が促進された人も、先述した取り組みを温かく、快く歓迎してくれました。

Beach clean-up

JETAAジャマイカ支部のメンバー、関係者及び友人たちが国際海岸クリーンアップデー(International Coastal Cleanup Day)でジャマイカキングストン市において海岸掃除をしている様子

また、当支部は過去15年間、在ジャマイカ日本大使館に協力し、学校を訪問しての日本文化のPRや、映画祭や日本デー等の文化イベントでのボランティア活動を通じて支援してきました。さらには、JETプログラムをサポートする重要な役割として、応募者の選考段階から、面接、最終候補者の出発前オリエンテーションまで関わっています。

Picnic by the Poui

JETAAジャマイカ支部のメンバー、関係者及び友人たちがジャマイカキングストン市にある植物園ホープガーデンにて例年行事の「Picnic by the poui」で豪華な料理を楽しむ様子(2016年11月12日)。

「Picnic by the poui」は、毎年開催してる行事の中で当支部独自の重要な文化イベントです。日本の花見をオマージュして、ジャマイカの首都にある絵のように美しい植物園「ホープガーデン」でJETAAジャマイカ支部が植えたイペーの木(poui tree)の下でピクニックをするという、お花見の伝統をジャマイカ風に取り入れた祝祭です。3月から5月にかけて開花し、ジャマイカ各地の風景に溶けこむ美しい黄色が華やかなイペーの木は、自然を満喫したり、ジャマイカと日本の豪華な料理を楽しむことができるなど、ゆったりとした午後のひとときに最適な背景となります。日本大使館や様々な日本関係クラブの代表者、当支部の関係者や友人たちが参加し、楽しいゲームやアクティビティーを楽しみながら親睦を深め、日本文化についても共有できる機会を提供しています。

JETAAジャマイカ支部は、JETプログラムが長く継続されていることを大変嬉しく思っております。JETプログラムの継続的な成功を着実なものにするためにも、今後とも引き続きクレア及び在ジャマイカ日本大使館との協力関係を継続していくことを期待しています。現在ジャマイカ国内には首都のキングストン市にしか支部がありませんが、日本の文化とJETプログラムの宣伝活動をより一層充実強化するために、いつかこの島の各地に支部ができる日を夢見ています。

プロフィール
ジャネット・ビー・フラー氏はジャマイカポートランド市の出身で、2002年から2003年まで福岡県ALTとして勤めていました。ジャマイカに帰国後、教育現場に戻りました。現在は、教育現場から少しずつ遠ざかり、大好きな執筆活動に専念しています。すでに3冊の本を出版しており、もう1冊書いているところです。ジャネット氏のことや彼女が現在取り組んでいるプロジェクトについては、下記のリンクをご覧ください。
https://www.janettebfuller.com

プロフィール
ジャネット・クリケ氏は2013年に共同で創設したフードツーリズムビジネス「Jamaica Culinary Tours」の社長です。ジャマイカのキングストン市の出身である彼女は、2002年から2004年まで宮崎県延岡市のALTとして勤務した後、ジャマイカとガイアナで数年間、前職である外国貿易及び外交政策の分野の仕事に戻り、従事していました。ガイアナから帰国した彼女は、グルメツアー業界において商売を始めました。近年では、キャリアの幅を広げ、異文化適応力及び異文化認識向上のトレーニングも行っています。また、母国語である英語に加え、スペイン語、フランス語、片言の日本語が話せます。JETAAジャマイカ支部が設立されたときからずっと活発に活動してきたメンバーであり、2006年から2007年まで会長を務めました。ジャネット氏と繋がりたい方はLinkedInにてご連絡ください。
https://www.linkedin.com/in/janet-crick-974ab730/

散りゆく花びら

アルト・ヘイリー氏、元富山県 ALT、2013年~2016年

桜は、新しい始まりを告げます。桜は毎年、幸運に恵まれている運命的な一期一会の出会いを象徴しています。もしかするとそれは、春の日の晴れた公園のピンクと白の木の下で読書をしたいと思うことによって起きる偶然なのかもしれません。

道沿いの桜並木

道沿いの桜並木。

4月の最初の2週間の間のある日曜日、ちょうど私はそれをすることにしました。花見といえば、普通は、友人や家族や同僚と一緒にピクニックや飲み会を楽しむものです。しかし私は、息もつかせぬ輝きを放つ貴重な2週間を大切にしたいと思い、毎日のようにピンクの花が咲いているところに出かけていました。散歩したり、ドライブに出かけたり、友達に遊んでもらったり、一人で本を読んだりしていました。桜を観ると、私の日本での生活も桜が散るようにいつか終わってしまうのではないかと心の奥で思ってしまいました。

私は昔から心配性かつ凝り性であり、その組み合わせで人生の中でストレスを感じてしまうことがよくあります。しかし、そんな私の心は、桜が咲くことで癒されました。

太陽の光に浴びた枝がさざ波を立て、桜の甘い香りが風に運ばれてくるだけで、「今」に集中することができました。桜は、終わりのないやることリストや将来の不安を癒してくれる薬のようなものでした。桜の下に座って、小さな花の房が揺れるのを見ていると、その瞬間私は完全に存在していること感じ、穏やかで満足することが出来ました。そして今、あの頃のことを思い出すと、いつでもあの状態に戻ることができます。

ある春の日に、私は本と座るための毛布を持って、車で25分ほど走って木々に囲まれた素敵な公園に出かけました。座る場所を決めて、本を読み始めて数分後、見上げると桜の木が目にはいりました。黒っぽい細長い枝が空に伸びている様子や、塊になって咲いている花が素敵でした。その時、聞き慣れない声で話しかけられました。

「こんにちは」

振り向くと、6メートルも離れていないところに老夫婦が座っていました。お二人の前には、豪華なピクニックの料理が広げられていました。料理は、フォンデュ、ソーセージ、パスタサラダ、サンドイッチ、クラッカー、チップス、ビール、カクテルなどが用意されていました。もっとあったかもしれませんが、忘れてしまいました。

「こんにちは 」
と、私は微笑みながら答えた。

「お一人で座っているのをみて、もし良かったら一緒に座りませんか?」

私は、自分が望む静かなひとときと、自分にとって必要な経験との間で葛藤し、一瞬躊躇しました。結局、私は桜の精神を受け入れることにしました。人生そのもの、そして今日という一日が短いということを思い出しました。私は本と毛布とバッグを持って、老夫婦まで歩いていきました。お二人は喜んでくれました。日本に住んで8年近くになりますが、私が経験した中で最も楽しい午後のひとときを過ごせました。

この3時間の間に何を話したかは上手く覚えていませんが、どのように感じたのかは覚えています。老夫婦の突然の誘いに驚きながらも嬉しく感じたこと、また、夫婦たちの寛大さや、親しみやすさに喜びを感じ、彼らの仲間意識に感謝しました。私たちは英語と日本語で話し、笑いながら食事をしていました。私の出身地、夫婦たちの仕事、子供や私たちの好きな日本の観光地のことなどを話していたのをぼんやりと覚えています。日が沈み始めた頃、お別れの時間になりました。

通りすがりの人に一緒に写真を撮ってもらいました。メールアドレスを交換して、一時期はメールのやりとりをしていました。ほんの一瞬ですが、私たちは偶然に出会い、お互いの存在を知らない状態から、一緒にできた思い出を大切にするようになりました。

桜の花は、新しい始まりと終わりを象徴しています。

「桜の花は、新しい始まりと終わりを象徴しています。」

日本での友好関係や機会の申し出に「イエス」と答えることは、日本を離れてからもとてもいい教訓となっています。疲れやストレスで誘いを断るのはとても簡単です。自分のために自由時間を確保することはとても大切ですが、「一人になりたい」と言って孤独の穴に落ちてしまうことを防ぐことも大切です。知らない人との新しい出会いや、何年後かに思い出す素敵な思い出を作るチャンスを逃さないようにしましょう。

桜の花は、新しい始まりと終わりを象徴しています。苦労も友情も、良い日も悪い日も、この季節もこの人生も、いつかはすべてが終わりを迎えます。儚く咲く桜の木のように、一日があっという間です。「今」を楽しむのを決めるのはあなたの選択です。 すべての終わりがどのように新しい始まりにつながるのか、その機会に気づくのはあなた次第です。人生があなたに手を差し伸べたとき、その瞬間がいかに早く過ぎ去るかを思い出してください。イエスと言って、それを受け取ってください。

プロフィール
アルト・ヘイリー氏は、日本語および東アジア研究の専門でUW-マディソン大学を卒業し、2013年~2016年の間富山県立山町という美しい町でJETプログラムにてALTとして働きました。2016年~2017年の間は、金沢で旅行代理店と立山町で2017年~2020年は私的契約のCIRとしても務めたことがあります。現在、テキサス州のオースティン市のIT企業でエグゼクティブアシスタントとして働いています。暇なときは、執筆活動やハイキング、お菓子作りなどをしています。ウィスコンシン州メノモニーフォールズ出身であり、牛製品で有名なウィスコンシン州を愛する「チーズヘッド」としてのアイデンティティを持っています。
アルト氏についてもっと知りたい方は、http://www.haleyalt.comをご確認ください。

キュービクルを超えた生活から得た教訓

マイニエロ・カサンドラ氏、元愛媛県ALT、2018年~2019年

私がアメリカでの8年間勤めた仕事を辞めて、JETプログラムの外国語指導助手(ALT)になったとき、当時の同僚たちは殆ど関心を示しませんでした。ある先輩は、2003年にキャニオンランズ国立公園でハイキングをしたアメリカ人のアーロン・リー・ラルストンと私が似ていると言っていました。これは有名な話ですが、ラルストンは冒険の途中で5日間も岩に挟まれて動けなくなってしまい、自分の尿を飲み、40ポンドも痩せながらも、最終的には腕を切り落として逃げ出しました。「彼の腕がなくなったんだよ!」と同僚は言い、挙句には「こんな大冒険に踏み出して、その結果がこれだよ!」とさえ言っていました。

みんなの意見は明らかで「いま現在の仕事を続けるべき」」ということで一致していました。安定した仕事を辞め、予測がつかずさらに大変な仕事に就こうとするのは、野心的というだけでは説明できず、まさにバカげていました。

それでも私は決心しました。英語の学位を持つ26歳の社員として、私は長年のキャリアでエンジニアリング会社の役に立っていました。私は会社の組織構成やこの分野の専門用語を知っていました。日々の平凡さも知っていました。しかし、私は、キュービクルのような生活(パーティションで囲まれた座りっぱなしのデスクワーク)を望んでいませんでした。それよりも、子供と関わる仕事をして、自分のスキルと興味のあることを組み合わせたいと思っていました。私は教育と文化が大好きで、一番したかったのはインターナショナルスクールで教えることでした。

また、大学を卒業して2週間後に正社員としての仕事を引き受けた時にはしていなかったことですが、探求したり、考えたりする必要がありました。個人的には、芸術的なアプローチや風景のある日本がずっと好きでした。数年前に四国を訪れたときは、近い将来、興味が薄れるだろうと思っていました。しかし、私は自分自身が日本と小指で結ばれた2つの運命の存在であるかのように、日本へと回帰し続けていることに気がつきました。

私は日本に旅経たなければなりませんでした。自分が教えることができるかどうか、そしてなぜ日本が私の頭の中で浮かび続けるのかを知る必要がありました。この自分の思いを上司、自分、家族に繰り返し説きました。私はこの2ヶ月後に旅経ちました。

JETプログラムに参加していた間、私はポジティブなこともネガティブなことも学びました。例えば、JETプログラムに参加する前は、インターナショナルスクールの中学部で英語の先生になろうと思っていました。しかし、参加中では、私の教え方や活力は3年生や4年生に向いていることがわかりました。また、私は学習が達成されたかどうかよりも、学習中の生徒の気持ちを大切にしていました。このことから、私は教職よりもスクール・カウンセラーの方が向いていると思いました。

しかし、私が最も大きな気づきを得たのは、一人旅で登別に行った時でした。

登別は北海道にある町で、「鬼の町」という愛称で親しまれています。愛称は “鬼の町”。地獄谷(じごくだに)という火山の谷間から湧き出る3000もの温泉があることから、その名がついたといわれています。しかし、この町には地獄のようなものはありません。むしろ、人口5万人に満たない登別は、隠れた宝石のような街です。石畳の街並み、小さなお土産屋さん、居心地の良いラーメン屋さん、はちみつをかけた北海道産の生クリームを販売するお店など、温泉の硫黄の香りが漂っています。

demon town

登別は3000もの温泉があり、「鬼の町」としても知られています。

年間を通して、12月にも雪が降らず、定期的にみかんを食べる人がいる今治という日本の南に位置する地方都市に住んでいました。私は雪が恋しくて北海道に行きました。また、スキーをしたり、鶴を見に行ったりしたいと思っていました。

しかし、この後起きた事件以外は何も起こらなかったのです。

旅行を楽しむどころか、二日目の日、私は石でできた温泉の床に裸で突っ伏していて、額から血が滴り落ちていることに気づいたのです。私は、お湯に長くつかりすぎて体が耐えられず、湯あたり状態になっていました。一番の問題は、気を失った時に石の床に頭をぶつけてしまい、頭を割ってしまい、血圧が53/75まで下がってしまったことです。救急隊員に囲まれて目を覚ましましたが、その救急隊員は私の頭に濡れた手ぬぐいを押し、救急車に私を押し込んでくれました。

踏んだり蹴ったりで、病院を出る頃には暗くなっていました。額には包帯が巻かれ、携帯電話の電池は10%以下になっていました。バスはその日はもう止まっていました。また、救急車で運ばれてきたので、自分がどこにいるのかわかりません。そこで、タクシーまで2マイルほど歩き、駅まで送ってほしいと頼みました。しかし、脳震盪を起こしていたので、運転手にお金を払いすぎてしまい、挙句の果てには、間違った切符を買ってしまいました。正しい切符を買った後、今度は2本目の電車に乗り遅れてしまいました。そして、雪の中で1時間待ちました。靴はボロボロ。頭の中がガンガンと鳴っていました。ホステルに戻ってきたのは午後11時でした。旅の残りの部分は室内で、こたつの下で甘いパンを食べていました。その間ずっと、故郷の同僚が未知の世界がどれほど危険か警告してくれたか考えていました。私は旅の悪夢の中のラルストンのような気分になりました。外国で、たった一人で入院したと。

やめて故郷に帰りたいなと思いましたが、私は帰りませんでした。

その代わりに、私はある選択をしたのです。この休暇は、私が警告されていた通りのものでしたが、それでも私は生き残ったのです。これが私自身の基礎になってくれました。 予測不可能なことにどう対処するか、未知の世界をどうナビゲートするか、そしてそのようなリスクの中でより安全に感じるために必要なことを教えてくれる私のバロメーターとなったのです。今治に戻ってからは、挑戦や不快感を受け入れる能力が高まりました。そのおかげで、私はより柔軟な教師になり、アメリカに戻ってからは、より強い社員になりました。思いがけず、私は計算されたリスクを取ることができるようになり、それがプラスの結果につながることが多くなりました。JETプログラムがなければ、このような自信を得ることはできなかったでしょう。

もしあなたが私のような人物であれば、あなたの周りの人はJETプログラムを見て、それをあなたから遠ざけてしまうかもしれません。未知の世界であることにかこつけて、自分を満足させない仕事や場所、人間関係に引き留めようとします。あなた自身も自分の思いとは裏腹に、この働きかけを利用するでしょう。しかし、自分の思いに従え、JETプログラムに参加すれば、あなた自身が不快感やリスクにどう対処するのかがわかり、成長する(安全な!)機会となるでしょう。それが新しい技術や友情につながることもあります。また、自分自身を理解し、再創造するのにも役立ちます。未知のものをバリアとしてではなく、発射台として見る人になることができます。その結果、あなたは変化や挑戦に抵抗しない、より柔軟で強い自分になることができます。そうすることで、あなたはより多くの世界に開かれ、世界はあなたに開かれていくのです。

プロフィール
2018~2020に愛媛県今治市でALTとして勤務。現在はバーモント州に住み、フリーランスのライター/助成金ライターとして、地元の学校のSTEM教育の取り組みを支援しています。余暇には、日本語とムエタイの勉強を続け、ケーキを作り、愛犬のデューイと一緒にハイキングを楽しんでいます。また、スノーボードも学習中。2022年には日本の北海道に再訪し、スノーボードをすることを計画しています。

JET後の生活に順応するため、日本を歩いてみた

ワセル・トッド氏、元滋賀県ALT、1999年~2001年

JETに応募する多くの人は、JETは一生に一度の大冒険のようなものに思っているでしょう。しかし、私にとっては、滋賀県北部に住んでいた2年間の生活が、日本を好きになるきっかけとなりました。 私はJETプログラムの後も、5年以上日本に残り教え続けました。間違いなく私の人生の中で最高のひと時でした。しかし、やがてこれからの自分の人生について悩み始めました。

霊山寺

四国八十八ヶ所霊場めぐりの第1番札所、霊山寺。

確かに、日本で子どもに英語を教え、日本語を学び、文化を少し理解できたのは大きな成果でした。しかし、日本を離れた多くのJET経験者と同じく、日本での時間をどうやって履歴書や面接に活かせるのかわからないまま、可能性が溢れているにもかかわらず、進路に迷ってしまっていました。

近代化を推し進めつつも伝統を守るという日本文化の定型的な点にヒントを得て、私は四国に戻る決意をしました。1998年に初めて、私は約1,400キロメートルもある四国88箇所の寺を巡礼しました。その時経験した壮大な冒険がきっかけとなって、日本に移住したいと決意しました。日本を離れる準備をしていた私は、四国遍路が自分の人生で何をしたいのか明確にさせてくれるではないかと思いました。もしかすると、「大人になったら何になりたいのか」という多くの若者が結局は行き着く問いの答えを見つけられるかもしれないと思ったのです。

間違って違う質問をしてしまっていたとは思いませんでした。

野外で寝ていて、日本の地図だけを頼りにしていた私は、フリーメイソンから隠れて彷徨う禁欲主義者の人、私のお金を奪おうとしていた裸のヤクザ、詐欺師の巡礼者やビーフジャーキーを愛していたがアメリカが嫌いだった仏教の僧侶など、おかしな人物たちに助けられながら旅を続けていました。しかし、これらの極端な状況を和らげてくれたのは、四国の人々の親切さと長年にわたる巡礼者への支援でした。

自然溢れる風景

自然溢れる風景。

私の人生の中で日本に住んでいた時期が私にとって何を意味していたのかを理解するために、私は歩き遍路と日本での生活についての本を書きました。私に続いて日本での体験を出版したいと考えている人にとって、自費出版はかつてないほど簡単になりました。

Walking in Circles: Finding Happiness in Lost Japan

「Walking in Circles: Finding Happiness in Lost Japan」

しかし、日本のようなダイナミックな国とそこで出会った人たちと一緒にできた幅広い経験を、その雰囲気を保ちながら本に絞り込むことはとても難しいです。人生に影響の与える大きいな出来事を興味深く描くことは、さらに困難です。

自分のこと、そして日本のことについて何を言いたいのか決めるのに15年以上の試行錯誤を経て執筆しました。感想を日記に集め、何章も書いていました。その多くの章は本に入れないことにしました。初稿の終わりが見えてきた時に、私とともに本が「年」を取るしまったことに気づきました。この本は、私の成長を描いた本ではなくなり、自分とは何者なのか、日本とはどのような場所なのかを旅の途中で出会った巡礼者の目線で探求した本になりました。 そのため、新たなテーマに合わせて前半を書き直すことにしました。

自分の本を書くことを夢見ているのなら、とにかく始めてみることです。書き始めれば書くほど変化し、成長していきますが、最初の一行を書かなければ最後の一行を書き上げることはできません。自分の本が、日本を歩く巡礼者の興味深い世界を照らし出すだけでなく、他のJET経験者が自分たちのJET後の道がどこへ向かっているのかを理解することに役に立つことを願っています。本を読んでみようと思ってくれたら、「焼き鳥事件」に注目してください。長年旅をしてきたが、こういうことは日本でしか起こらないでしょう。

プロフィール
トッド・ワセル氏は、1999年から2001年まで滋賀県のALTを務めていました。現在は国際開発の専門家、作家、旅行者として活躍をしています。現在、ワセル氏は、ラオス人民民主共和国にてアジア財団の国別代表を務めています。元々アメリカ出身で、20年以上アメリカを出て、45カ国以上に住んで仕事をしてきました。2回目の四国巡礼から15年後、ワセル氏はその旅を言葉にまとめて「Walking in Circles: Finding Happiness in Lost Japan」という本を完成させました。本の中では、伝統的な四国遍路に挑戦することで、人生の意味を探すというワセル氏の日本での経験をもとにした話が執筆されています。現代生活の落とし穴と日本社会の矛盾しているところを楽しく、冒険的にそして洞察力豊かに描かれているWalking in CirclesがJET経験者の役に立つことを願っています。
ワセル氏の本はAmazonで購入できます: https://www.amazon.com/dp/173531160X
ワセル氏の冒険を生で見たい方はSNSをチェック。ウェブサイト:https://www.toddwassel.com

模倣品の先にある視点

マクラウド・ステファニー博士、元福井県ALT、1995年~1998年

先日、地元の古物商を訪ねていた時、一組の磁器製のアヒルが目に留まりました。それは、目立った特徴の無い小さなマガモの人形で、それなりに趣のあるものでしたが、私が普通に興味を持つようなものではありませんでした。アヒルを拾い上げ、ひっくり返したとき、私はすぐに魅力を理解しました。 底面には「Made in Occupied Japan(占領下の日本製)」と太字で刻印されています。

当然、このアヒルのペアは北米で作られたものだと思っていました。数年前から陶器を集めていても、陶器に「占領下の日本」と書かれているのを見たことがありません。そのような刻印があることすら知りませんでした。第二次世界大戦直後に日本で磁器製のアヒルの模造品が作られていたとは全然思っていませんでした。

陶器

「占領下の日本」で作られた陶器。

実は、1945年から1952年にかけて、経済復興のための手段として、さまざまな外国製品の模造品が日本で製造されていたことが判明しました。工場は、輸入当局がアメリカやヨーロッパのブランドと間違わないように、すべての製品に「Occupied Japan」または「Made in Occupied Japan」の刻印を押すことを義務付けられていました。フンメル、マイセン、ロイヤルドルトン、ヴィクトリア朝の陶器製品の模倣品は、瀬戸や名古屋で生産され、主に北米に輸出され、昔の安物雑貨店(バラエティショップ)で売られていました。

いずれにしても、この記事の真の目的は、マッカーサー元帥の下での陶磁器や日本の製造業の話ではありません。本当のポイントは、JETプログラム経験者として、私の世界観がどのように変化したか、つまり「JET経験」の結果として世界を見る目が変わったことを認めることです。

日本で英語を教えるためにカナダを離れてから25年が経ちました。しかし、何年経っても日本の文化は私にとって未だに謎の多いものです。心の底ではまだ日本に興味を持っています。日本のことなら何でも学びたいと思っています。

日常の美しさ

日常に潜む美しさを感じる。

現在、カナダ政府に勤務していますが、JETプログラムは私のキャリアに大きな影響を与えました。カナダに戻ってからは、国際マーケティングを学び、日加関係を深めること力を入れました。カナダ日産自動車株式会社で大学院のフィールドワークを修了し、カナダの保険会社の東京支店設立を支援したり、在トロント日本国総領事館で広報の仕事をして日本文化の理解を深めたり、オタワの在カナダ日本国大使館では二国間の貿易や投資の支援をしたりしました。

今のJET参加者へのアドバイスは、最初にJETプログラムに興味を持ったことを見失わないようにすることです。好奇心を持ち続けてください。

プロフィール
マクラウド氏は、カナダのオタワ出身です。ALTとして、書道、陶芸、着物の気付けや茶道を学んでいました。生徒たちにチャレド、ハングマンやジャンケンなどのゲームと「モンスターマッシュ」のようなポップソングを教えてあげました。
マクラウド氏は現在、カナダ国立研究評議会に勤務し、新型コロナウィルスが落ち着いたら、自身のコンサルティングビジネスを立ち上げようとしています。

「充実した人生を送るために」—JETに触発されて本を書くことになった経緯

ハデン・ポール氏、元大阪市ALT、2011年~2014年;元大分市ALT、2018年~2019年

ホームシックになって地元の夢を見たいときには、目を閉じるだけで、島の音がはっきりと想像の中で聞こえてきます。熱いトタンの屋根を叩く雨の音、野良犬の吠え声、遠く離れたラムショップからソカの音楽のくぐもったベース、鉄くずや使用済み電池を収集しているバンの上に設置された小さいスピーカーから流れる音…私は全てをはっきりと覚えています。

しかし、今、私は日本に住んでいるので、周りは全く違う音で溢れています。3ヶ月前にここに引っ越してきましたが、新しい環境に慣れることが出来ず、そして未知の世界への恐怖心から、日本に来て少しの間、私の感覚は高まっていました。これからは、全く新しい刺激(音)に慣れるしかありません。

では、この新しい「音の世界」とは何でしょう?

それは、アパートの障子をガタガタと鳴らす台風の大風の音。近所の神社の入り口に並ぶ風鈴の音。近くのパチンコ店の機械(日本のスロットマシン)に何千個の金属球が流れ込む轟音。お店に入ると、店員が大声でお客さんを出迎える「イラシャイマセ!」。

それは、木々に囲まれた古いお寺の真ん中にある鯉の入った池に、竹のパイプからぽろぽろと流れ落ちる冷たい水の音。 醤油漬けの焼肉を熱々鉄板でジュージューと焼く音や、きのこ、大根、豆腐、肉でいっぱいの鍋がぐつぐつと調理される音。 最後に、夕飯となるお米が熱くて食べられるようになったことを示す毎日ピーと鳴る炊飯器の音です。

もちろん、地元がまだ恋しいです。もちろん、美しい故郷の音はいつまでも恋しいかもしれません。 しかし、時間が経つにつれ、この広くて神秘的な世の中の新しい地域を知ることができたことに満足しています。

私はポール・ハデンと言います。私はカリブ海地域の美しい双子島トリニダード・トバゴ共和国から来ました。上記の段落は私の新刊「充実な人生を送るために -1巻 -トリニダードと日本」から転載したのもので、主にJETプログラムの経験に基づいています。私は子供のころから言葉が大好きでした。大学で日本語の入門講座を受けていた時、初めてJETのことを知りました。先生にJETプログラムの説明を聞いた瞬間から、JETをやりたいと決めました。トリニダードのような小さな町から世界の向こう側に移動し、日本のような魅力的な国で生活しながら仕事ができるというのは、まるで夢のような機会でした!

私は幸運なことに2回もJETプログラムに参加することができました。2011年から2014年までは大阪市中心部に配属されました。これは、今までの人生の中で、最高の3年間となりました。その後、母国に帰国し数年間をトリニダードで過ごしました。しかし、まだまだ学ぶこと、経験できることがたくさんあると判断し、もう少し日本で過ごしたいと思っていました。2018年から2019年までのJETの2回目は、九州北部に位置する美しい大分県で2年間を過ごしました。

食事

知り合いと食事中。

JETに参加していた頃は、まさか自分が本を書くことになるとは思ってもいませんでした。ALTとして働いていた時には、The Trinidad Newsday新聞に、食・文化・旅行に関するコラムを毎週寄稿していました。記事に合わせてレシピも記載していました。例えば、初詣に参加するために神社にお参りしたことについて記事を記載したときは、そのテーマに合わせて甘酒のレシピを載せました。

新聞コラムは、私の日本での生活の日記のようなものになりました。記事では、日本での自分の経験を掲載することで、日常生活の中で学んできた日本の文化を母国の人々と共有することができ、記事に対して非常に好意的な評価をいただくようになりました。日本では当たり前だと慣れてきたことが、地元の人たちにとってはとても面白いことだということに気が付きました。茶道の意味について仲間の教師と会話をしたことや、もみじの色の変化を楽しむために森を訪れたこと、雲海の美しさを観察するために早朝に山に登ったことなど、日常生活から記事のインスピレーションを得ました。ストレスを感じていたときでも、記事を書くことによって、日本の面白さを再認識させてくれたことに加えて、自分が育った文化を振り返ることもできました。記事の多くは、海外に移住した経験だけでなく、母国の文化についても触れるようにしていました。出身地は違っていても、母国を離れて日本のようにまったく違う場所に移住することは、読者にとっても大変興味深いようです。

大分県のレストラン

大分県にあるレストランの前。

JETでの経験を本にして伝えたいのは私だけではないはずです。多くのJET経験者が本を書こうと考えているのではないでしょうか。 JETプログラムには様々な個性を持った人が参加していますが、共通点として、人生の中では「経験」を大切にしている人が多いでしょう。多くのJET経験者にとって、日本での経験や出会った人々との思い出は、大きな宝物の一つです。当時は気づかなかったのですが、新聞のコラムは個人的な日記のようなものに変わっていて、書いていなければ忘れてしまっていたような、日本での経験の小さな発見をたくさん記録することができました。

Coffee Dessert

コーヒーとプリンを堪能。

本を出版しようと考えているJET経験者・現役JET参加者へ言いたい最初のアドバイスとしては、「やってみてください!」です。嬉しいときや落ち込んだときを含めたあなたの日本での経験は、とても大切な宝のようなものです。その経験はそれぞれ違うため、あなたが書く日本でのユニークな経験もきっと面白いでしょう。誰よりも世界を幅広く経験できたプロ料理人・記者のアンソニー・バーデイン氏は、かつて「日本は永遠に面白いところだ…私はまだ、日本のほんの少ししかかじっていない。今後も、日本のすべてを理解することはできないでしょう」と言った。JETの経験ができてとても幸運に思っています。日本での生活があなたにとってどのようなものであったのかを知りたい人がたくさんいるでしょう。

次のアドバイスは、思い出をメモに書き留めるための時間を作ることです。思い出は複雑なものでなくてもきっと面白いでしょう! 私にとっては 温泉の湯気の中で調理された食事や、河童の像がたくさん並んでいた小さなお寺への旅の思い出が記事のインスピレーションになっていたことがあります。このような経験の思い出がたくさんあるのではないかと思います。ぜひ書いてみてください。

最後のアドバイスは、現代技術の利点についてです。オンライン上でのセルフパブリッシングが非常に容易になりました。自分でセルフパブリッシングに挑戦してみたい人向けの情報がたくさんあります。 勇気を持って、自分の書いた文章を世界へ発信することをお勧めします。JET参加者としての経験は、困難なことがあったとしても、とても貴重なものであったということを覚えていてください 。その経験ができたからこそ、世界と共有すべき話がたくさんあるのです。頑張ってください!

リンク: ‘A Life Well Seasoned’ by Paul Hadden –

https://www.amazon.com/Life-Well-Seasoned-Trinidad-Japan-ebook/dp/B08TV5L1Q8/ref=sr_1_1?dchild=1&keywords=a+life+well+seasoned+paul+hadden&qid=1611748634&sr=8-1

プロフィール
ポール・ハデン氏はカリブ海の美しい島国トリニダード・トバゴ共和国で生まれ育ちました。2009年にニューヨークのセント・ジョンズ大学にて英・仏文学の学士号を取得しました。卒業後、カリブ海、フランス、日本の間を旅回ってきました。2011年から2014年までは大阪市、2018年から2019年まで大分市でJET参加者として日本に滞在しました。現在は、英語とフランス語の教師を務めながら、フリーランスライターとしても活動しています。 また、トリニダードの大手新聞に毎週コラムを載せ、日本の料理や文化についてもよく記載されています。ハデン氏は、料理、作文、クラシックピアノを弾くことが大好きのようです。ハデン氏は2020年12月に初の本を出版しました。

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