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2020年JET Streams春・夏号

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JET Streams

2020年JET Streams春・夏号

JETAA(元JET参加者の会)
 
JETの向こうに
2020年JETAAニュージーランドサミット

Roseanna Finkle-Vern、元愛知県CIR、2014-2017

ニュージーランドの JETAA 支部は、1 月の美しい夏の週末にクライストチャーチで第 1 回 ニュージーランドサミットを開催し、2020 年に向けて素晴らしいスタートを切りました。オークランド、ウェリントン、南島の各支部の代表者と、オーストラリアからはるばる来てくれたクレアのシドニー代表者2名が参加しました。全支部が一堂に会し、JETAAの向上と会員数の増加に向けての努力を再確認する良い機会になったとの意見が一致し、会議は大成功を収めました。翌日には南島支部の運動会もあり、生産的でポジティブな会の締めくくりには最適でした。

土曜日は、クライストチャーチで昼食をとりながらの懇談の後、サミットの会議が行われました。2011年、日本の震災の数週間前に壊滅的な地震に見舞われたクライストチャーチは、今もなお復興の途上にあります。クライストチャーチの地震では多くの日本人が命を落としましたが、この逆境は両国の関係をより強固なものにしています。クライストチャーチにいる間、私たちのグループは、日本の坂茂氏が設計した素晴らしい大聖堂を訪れました。この大聖堂は、日本とクライストチャーチの絆の強さを象徴するものであり、環境にやさしく、元の建物を尊重しながら、景観に美的なアクセントを加えながら再建することがいかに環境にやさしいかを示す素晴らしい作品でした。

サミットが正式に開かれると、まずは各支部の現状を語ってもらいました。他の支部の見どころや課題を聞くことができ、自分たちの課題についても新鮮な目線で話を聞くことができました。その後、CLAIRの代表者から、JETAAに期待されていること、JET参加者のプログラム終了後の生活をより良くするために現在行っているプロジェクトや力を入れていることなどの話を聞きました。日本の教育制度が一新され、低年齢からの英語力を重視するようになったことで、日本でもJETのALTを希望する学校が増えてきています。クレアは、JET参加者の数が急増しても、参加者の質が低下しないように努力しています。このことは、JET参加者が、JETプログラム終了後の生活においても、優秀な人材であるという信頼度が低下しないようにするためであり、今後数年間は特に重要なことです。最後に、フォーカスグループに分かれて問題解決に取り組み、具体的な目標は何か、それを達成できているかどうかに焦点を当てるようにしました。西オーストラリア支部が2019年のオセアニア会議で紹介してくれたリソースを利用しましたが、これは本当に助かりました。

日曜日は、サミットの締めくくりにぴったりの楽しいアクティビティである、日本の運動会をベースにしたカジュアルなイベントでした。綱引きや水風船投げなどの楽しいアクティビティの前に、クライストチャーチの第二の名前である「ガーデンシティ」を象徴する美しい公園でピクニックをしました。このようなイベントは、帰国し定住した家族を奨励するために、私たちが話し合った家族向けイベントの増加の素晴らしい一例です。ピクニックは、キウイの伝統フィッシュ&チップス、日本の寿司、そして参加者がパンやフルーツを持ち寄るというものでした。クレアの代表者も参加し、アヒルに餌をやるのを楽しみました!一体感を感じて楽しいイベントでした。

各支部は、ニュージーランドに焦点を当てたイベントが開催され、JETAA コミュニティの共通の問題を一緒に話し合えたことが非常に有意義だったと感じました。今後も継続して開催していきたいと思います。

プロフィール
高校でCIRになりたいと決心した後、できるだけ早く応募し、愛知県一宮市に配属され、イタリア人の同僚と働きました。2014年から2017年まで3年間勤めて、現在は在ニュージーランド日本国大使館の広報文化センターで働いています。現在の仕事は一宮での業務の延長のようなものなので素晴らしいです。私は兄がひらがなを書くことを見て、彼が読める「秘密のコード」に魅了されたこたをきっかけに、日本語を学び始めました。今では知らないうちに家族の周りで密かに会話したり、誕生日プレゼントについて話したりする方法として日本語を使用しています。

JETAAインド: 一年間の事業の概要

Divya Jha、元北九州ALT、2007年~2008年

こんにちは。

皆様、インドからナマステ!

2019年9月28日にRam Lal College(デリー大学南キャンパス)で日本語を学ぶ一年生を対象とした浴衣イベントを開催しました。プログラムが上手くいくか緊張していましたが、イベントは大成功でした。その後、自信をもって、2019年10月1日にSt. Stephen’s College(デリー大学北キャンパス)で次のワークショップを開催し、今回は大学2年生を対象としました。ワークショップのときに、浴衣の歴史、伝統、正しい着方、帯結び、そして現代日本における浴衣の意義について発表しました。浴衣の着方だけではなく、帯を結んで後ろに片づけることも教えました。両イベントにおいて、在インド日本大使館の二等書記官井上様もインドと日本の文化の類似点について発表してくれました。

プログラムの後、各参加者が日本料理を味わえるよう、お寿司(ベジタリアン)を用意しました。お寿司を食べたことがなく、わさびを知らない参加者も多かったです。みんな、浴衣やお寿司などとても楽しんでいました。


デリー大学のRam Lal Collegeでのゆかたイベント

デリー大学のSt. Stephen’s Collegeで2回目のゆかたイベント

2020年2月22日に、生け花ワークショップを開催しました。イベントに申し込んだ人が100人を超えて非常に大きな反響がありましたが、スペースの都合上50人しか参加できませんでした。デリー大学のDaulat Ram Collegeで開催したデモンストレーションとワークショップに、3人の生け花講師が招待されました。

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このイベントはクレアのシンガポール事務所の3人の役職員の方が訪問してくれたので、私たちにとって特別な機会となっていました。調査役の池上様がスピーチをし、学生たちと生け花を体験しました。ワークショップの後、優秀な2つのグループの参加者がクレアの職員から日本のお土産を受け取りました。

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(左からクレアシンガポール事務所の調査役池上様、JETAA-India会長Divya Jha、副会長Richa Dhar、会計Ankita Naresh、クレアシンガポール事務所の所長補佐井上様、日本大使館の二等書記官井上様とクレアシンガポール事務所の所長補佐石渡様)

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日中のイベントの後は、夜にコノート・プレイス(中央デリー)にある「Quality」というレストランでクレアシンガポールの職員と一緒に夕食会をしました

インドにおいて日本とその素晴らしい文化を広めていくため、今後もたくさんの日本文化のイベントを開催したいと考えています。

image002プロフィール
Divya Jha氏は2007年から2008年まで 北九州でALTとして勤めていました。そして2012年にはJETAAインド支部を設立しました。現在は、家業である国際物流事業の管理の傍ら、国際交流基金ニューデリーで日本語教師として働いています。
勤務時間外は、ゴミの最適な利用方法の開発に時間を使っています。彼女のベンチャー企業である「un-rag」を通じてワークショップを開き、牛乳パック、缶、プラスチック容器やダンボールといった家庭廃棄物の再利用について近所の人々に教えています。

デトロイトでつながる:JETAAグレート・レイクス支部が4回目のジョブフェアを開催しました。

Jennifer Sherman、元三重県ALT、2012年~2016年

旧正月である1月25日は、アメリカのJETAA支部の中でミシガン州とオハイオ州を管轄するJETAAグレート・レイクス支部(以下「GLJETAA」という。)が4回目のジョブフェアを開催し、より特別な日となりました。このイベントの成功は大変素晴らしいものであり、GLJETAAは来年の5周年に向けて、より大きな就職説明会を開催したいと考えています。

2020年GLJETAA ジョブフェアで来場者と企業の交流

GLJETAAは新たに会場として選定したミシガン州ノバイ市にあるサバーバンショウプレイスコレクションにおいて開催しました。 参加費は無料で、約70名が精力的に求職活動を行いました。午前10時に開会し、GLJETAAプレジデントのメーガンウォーデンは参加者を歓迎しました。 続いて、在デトロイト日本国総領事館の文化広報担当上級専門家であるアンネ・フーガートが基調講演を行い、その後、求職者と企業の代表者が自由に交流しました。

このフェアは、日本の文化や言語に精通している求職者であれば、JETの内外を問わず、誰でも参加することができました。参加者は企業と交流し、履歴書を提出し、ネットワークを構築した。地元企業の約10社が従業員やインターンを募集していた。

企業代表者が採用機会について説明してくれます

デトロイト日本ビジネス協会(JBSD)は、この3時間のイベントを共催し、GLJETAAに助成金を授与しました。この助成金は、GLJETAAの記念すべき年に一度のイベントを開催する上で、重要な役割を果たしました。

GLJETAAとそのパートナーは、就職説明会を通じて、デトロイトとその周辺の日本関連コミュニティにユニークな貢献をしています。就職説明会では、求職者と日本のビジネスコミュニティが一つになることができます。デトロイト都市圏に住む多くの日本語を勉強している人たちや日本語を話す人たちは、自分のスキルを活かせる仕事を知る機会がありません。大学の日本語プログラムや地元の日本関連の企業と連携したプロジェクトとして、就職希望者と地元の産業界との間のギャップを埋めるために、就職フェアを開催しています。

企業との交流後就職希望者間のネットワーキング

来年の就職説明会は、新型コロナウイルスの影響により、オンラインで行われるものと考えており、その準備として関係者と打ち合わせを調整しています。GLJETAAは、来年1月にも、求職者と雇用主を結び付けるという同様な経験をオンラインで提供できたらと考えています。デジタル形式の便利さから、ミシガン州とオハイオ州全体でアクセスが可能になり、参加者が拡大する可能性があります。

今年の就職説明会は目標を達成しましたが、GLJETAA は常に改善を心掛けています。次回対面で実施可能な場合の計画としては、JET プログラムと JETAA を宣伝するために専用のテーブルを設置し、より多くの求職者や企業に参加してもらうために早めの広報活動を行い、ネットワーキングの場やセッションを設けることを計画しています。参加者からのフィードバックは大部分が好意的で、軽食を提供するなどの提案もありました。また、GLJETAAチームは、候補者がキャリアチェンジをする際に、より多くのリソースを提供するため、専門的な能力を開発するためのセッションを取り入れることも検討しています。

GLJETAA就職説明会は、ミシガン州とオハイオ州のJETと日本関連のコミュニティにとって、強力な繋がりを提供することが出来ました。求職者と雇用主を結びつける取り組みはまだ始まったばかりですが、GLJETAAは今後の展開を楽しみにしています。
GLJETAAのその他の活動やイベントの情報は、ホームページに掲載されています。GLJETAAのメンバーは、ニュースレターを購読したり、Facebookで会話に参加したりすることができます。

プロフィール
Jennifer Sherman氏はオハイオ州エリリア出身。2018年4月からJETAAグレート・レイクス支部のオハイオエリア副会長として務めています。2011年にオーバリン大学で比較文学と東アジア研究の学位を取得して卒業した後、2012年に三重県美浜市に移りました。同地で2016年まで農村部の小中学校でJETプログラムのALTとして勤務し、現在、アニメニュースネットワークで日本のポップカルチャーニュースのアソシエイトエディターとして勤務しています。最近では、講談社コミックスやJ-Novel Clubを通じて、漫画やライトノベルのローカライズ編集にもキャリアの幅を広げています。英語圏の読者向けの日本コンテンツを編集しているとき以外は、子犬のヨシと公園で散歩を楽しんでいます。

環境への配慮を学ぶ

Shuying Yao、元札幌市ALT、2010年~2012年

「一部の人が熱心にゴミの削減を実行することより、不完全であったとしても、より多くの人が取り組むことに意味がある」 ゼロ・ウェイストチーフ Anne-Marie Bonneau

日本での生活から学んだ大切なことがあるとすれば、それは環境への思いやりです。初めて私が日本に引越ししてきたときに、街中にゴミ箱がほとんどないことに驚かされました。シンガポールには、エスカレーターの乗り場、エレベーターのロビー、バス停など所々にゴミ箱があるため、ゴミを持ち歩くことはとても不便に思いました。後で知ったのですが、これは日本ではゴミの分別が義務付けられているからだそうです。さらに、地域によっては牛乳パックを片付けたり、プラスチックを分別したりしなければならないほど厳しいところもあると知り驚きました。また、住民がお金を払って特定のビニール袋を買わなければならず、間接的にゴミ出しの費用を住民に負担させているというのは、本当に賢いと思いました。学校では、昼食後に生徒が牛乳パックをきれいに折りたたんで、キャップからボトルを分離して、ペットボトルをリサイクルしていることに気づきました。そのうちに、もったいない文化が私の中に芽生えてきて、環境に配慮して出来るだけごみを出さないように、必要な分だけ買って食べることを意識し、感謝するようになりました。この価値観は、JET を辞めてシンガポールに戻ってからも、自分に染みついています。

JETプログラムの後、私は日本のベンチャー企業であるtrippiece.comに入社しました。trippiece.comは、個人の旅行者が旅行計画を作成し、同じような旅行に参加したいユーザーを集めることができるオンラインプラットフォームです。私たちは、東京、京都、札幌などの一般的な観光地以外の日本のあまり知られていない地域を海外の旅行者に紹介したいと考えていました。私は仕事柄、沖縄、岐阜、長野、さらには遠く離れた北海道など、多くの美しい地域を訪れることができましたが、どこに行っても、地元の人たちがゴミの分別やリサイクル、環境への配慮などに真剣に取り組んでいることに気づかされました。その中でも特に印象に残っているのは、東京都の管理下にありながら大都市とは一線を画す伊豆大島への旅でした。島でのゆったりとした週末を釣りやダイビングをして過ごしました。シンガポールでは熱心なダイバーでしたが、JETプログラムでは札幌に勤めていたため、なかなか機会がありませんでした。やっと日本の海で潜ることができたのです。期待していた通り、海は透明度が高く、東南アジアの過密なダイビングスポットとは違って、海の生物の谷を見ることが出来ました。

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サンゴの健康の指標としてサンゴの色を記録するための調査を水中で実施します。

ダイビングの旅を続けるうちに、人間の活動が、環境、特に海に影響を与えることに気づきました。伊豆大島のようにすべてのダイビングポイントが手つかずの状態であるわけではなく、白化現象で荒廃しているところもあれば、海底にペットボトルやビニール袋、食べ物の包み紙、釣り糸や網などが捨てられているのを見かけることもあります。ダイバーであっても、誤ってサンゴにぶつかって破損したり損傷したりして、サイトに害を及ぼす可能性があります。そのため、私は昨年、タイのニューヘブンダイブショップのサンゴ礁保全プログラムに参加し、自分がどのように環境に貢献できるのかを理解することにしました。

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徒歩では行くことのできないタオ島の小さなビーチで清掃を行うと、そこには波で流れついたゴミが落ちています。それらの中には、大きな魚や他の海洋生物に餌と間違われることが多い小さなプラスチックやロープの小さな破片がたくさんあります。

プログラムの一環として、生態学と基本的な海洋生物学について学びました。私はこの分野で訓練を受けていなかったので、すべての専門用語を理解することは難しかったですが、さまざまな種類のサンゴと魚をその種まで特定することができたのはとても充実していました!私たちは、魚や無脊椎動物、サンゴの種類を把握するための調査を行いました。時には、特別なダイビングをして、サンゴの捕食者である貝類などを探して除去することもありました。また、人工サンゴ礁を作って設置し、インストラクターから様々なサンゴ修復技術を学び、地域の海洋環境に最適な方法を学びました。陸上では、ビーチの清掃を行い、歯ブラシや綿棒などの身の回り品から、ロープや捨てられたブイなどの釣り道具まで、様々なゴミを拾いました。また、水質検査を行い、異常がないかどうかを確認しました。

その中でも特に興味深いのが、低電圧の電気を利用してハードコーラルの健康と成長率を向上させるサンゴ礁修復法である「ミネラルアクリプション装置」※1です。人工サンゴ礁の金属構造物に電気を流すと、ミネラルが結晶化します。これにより、サンゴはこのミネラルを利用して骨格を形成し、3~4倍のスピードで成長し、回復力を高めることができます。プログラムの一環として、サンゴ礁の様々な種類のサンゴの成長を測定し、電流に対するそれらの応答を理解しました。また、サンゴの植栽を行い、構造物を安定させ、緩んだサンゴの破片を固定することで、人工サンゴ礁を維持しました。

私は合計6週間に渡ってプログラムに参加し、地元の人々や世界中の多くの保護ダイバーから学びました。この形式のダイビングは、レクリエーションダイビングよりもはるかに有意義であると思います。私はサンゴ礁や海洋生物、人間活動の影響について、より多くのことを見て理解するようになりました。学んだことを友達やダイバーと共有できることを楽しみにしています。私たちは完璧なヒーローである必要はありません。誰もが小さな役割を果たすことができれば、大きな変化を生み出すことができます。

1.参考: https://newheavenreefconservation.org/projects/mineral-accretion

image006プロフィール
Shuying Yao氏は2010年から2012年まで札幌市でALTを務め、冬はスノーボード、夏はハイキングなどアウトドアを楽しみました。JET終了後、日本とシンガポールの組織でビジネス開発者として働いた後、ユーザーエクスペリエンスデザインの分野に進みました。彼女は周りの人たちに影響を与え、より良いデジタル製品を作ることで意識を高め、海洋保護に貢献したいと考えています。

東京とカリフォルニアを行き来する

Steven Munatones、元滋賀県ALT、1988年~1990年

TOTOのトイレ、キャノンインクジェット印刷機、プレイステーションやインスタントラーメンなど、日本の先進的な技術や商品が世界中で有名です。

偶然なことに、JETプログラムのおかげで、日本のテクノロジー等を世界へ供給することに関わることができました。

私は、1988年~1990年の2年間、滋賀県に住んでいました。週末は国内旅行をし、一生懸命日本語の勉強をしていました。他のJETプログラム参加者と交流するよりも、仕事や勉強、旅行をしていました。私の目標は、各都道府県で少なくとも一回は週末を過ごすことでした。旅先で様々な人と出会い、中には芸能人、細工 、先生、研究者やサラリーマンもいました。時には新幹線や民宿で、またある時は祭りでも出会うこともありました。

71歳の佐藤先生

この偶然の一つとして、東京郊外の府中市で、ユニークな医者と出会いました。3人の日本人の友達からの意外な紹介での出会いが、私の人生を変えました。そのうえ、世界中の方の健康観、医学やリハビリに関する考え方も変える出会いでありました。

日本のオリンピック選手の能力を果たすため、またはついまひの患者を体の動きや行動能力を回復するために働いている佐藤義昭先生とユニークな紹介を通して出合いました。最初は、世界で非常に肉体的に能力のある方と同時に、障害者や肢などのない方と働くのは珍しいと思っていました。

口調が柔らかい佐藤先生と初めて出会った時、アスリートだけではなく、事故で障害者になった人を治療するために働いた理由や方法を説明してくれました。
「こういった人々の治療を手伝わないといけません。我々は人間と人間の能力は全く違う視点で見ています。特に日本の高齢化を考えると、人々の体を強化させることができます。そうすることで、低コストで効率的に、日本社会がより少ない医療費で、日本人の方の健康を守ることができます」と言いました。

佐藤先生の目的は崇高だと思いました。

彼は、治療している72歳の女性と一緒にやっていることを見せてくれました。ステアマスターを使っている彼女の機敏さと強さに衝撃を受けました。その瞬間、「私が彼女の年齢になっても、彼女のように強くて元気でいたい。」と思いました。

佐藤先生は私にもその技術を見せてくださいました。すぐはまるようになった私は、アメリカに帰って、自分にも試したいと思いました。しかしそれよりも、両親と年寄りの親戚のことを考えました。彼らは年を取って、弱くなっていたので、佐藤先生に見せてもらった「加圧」という技術が必ず役に立つと思いました。

なぜこの技術が国外には知られていないのかと佐藤先生に尋ねると、「海外旅行はしていないし、英語も話せない」と言われました。

私は大きな笑顔で「私は両方やっていますよ」と返しました。

佐藤先生は「それでは、加圧を教えてあげましょう」と、笑顔を返しました。

この瞬間から、私の人生が大きく変わりました。

しかし、日本であったたくさんの経験と同様に、佐藤先生から教わる新しい世界は難しく、理解するのに時間がかかりました。
医学部を卒業し、博士号も持っている佐藤先生は、人間の神経機能、人体構造、代謝作用及び生化学的反応について、私よりはるかに詳しかったです。先生は大人になってからずっと、この新しい分野で活躍してきなのです。

「加圧の全てを学ぶためには、何回も私を訪ねないといけません」と先生は言いました。「全てを勉強すると、体の自然治癒力について新しいことを学ぶことができます。」
私は日本語が話せましたが、医学用語は英語ででも日本語ででも勉強したことがありませんでした。

私にとっては未知の世界でしたが、早速始めようと思い、医学英和辞典を買いました。佐藤先生との出会いの後に、カリフォルニア州ハンティングトンビーチに帰ることになりましたが、加圧を全力で勉強することを決めました。

海外出張の多い仕事をしていた私は、機会のあるたびに南カリフォルニアから府中や東京にある先生の事務所及びラボラトリーを訪れました。佐藤先生に会うことを少なくとも1年に4回、13年間続きました。

彼は、東京大学病院へ連れて行って、患者の治療で加圧を使っている心臓専門医、内科医や整形手術の外科医を紹介してくれました。日本のオリンピック選手がどのように加圧を利用し、スピード、力と体力を上昇させているか見せてくれました。また、対麻痺の患者や脳性小児麻痺の患者を対象とした加圧の使い方を教えてくれました。昏睡状態の患者や、104歳の方に対する加圧の方法も説明してくれました。

本当に素晴らしい冒険でした。東京へ帰るたびに、加圧について新しいことを学ぶことができました。

いよいよ2014年1月、佐藤先生が世界中に加圧を紹介したいと言ったため、私のふるさとで「KAATSU Global」という会社を設立しました。

この5年間は、新しい商品を開発し、すべてを英語で記録したものをフランス語、スペイン語、ドイツ語、ポーランド語、韓国語、中国語、ハンガリー語やオランダ語にも訳しました。

現在まで、以下の方々が「KAATSU Global」のお客様になりました。
・米国の国防総省、復員軍人省、アメリカのプロのスポーツチーム「NFL(ナショナルフットボールリーグ)、 NBA(全米バスケットボール協会)、 MLB (メジャーリーグベースボール) NHL(ナショナルホッケーリーグ)及び MLS(メジャーリーグサッカー)」
・全米大学体育協会(NCAA)に加入している大学の体育部70以上
・高校のスポーツチーム
・水泳、水球、バレーボール、レスリング、ラグビー、陸上、サッカー、パワーリフティング、トライアスロン、スピードスケート、ノルディックスキー、スラロムスキーの分野からのオリンピック選手
・サーフィン、登山とオートバイレースのアスリート

しかし、佐藤先生が数年前に想像したとおり、ほとんどの利用者はベビーブーマー(1946~64年生まれの世代)です。

私は毎日、エリートアスリートや外科や事故から回復しているお年寄りの方を手伝っています。

なんて楽しく、なんて素晴らしい旅なのでしょう。

steven-munatones-portraitプロフィール
ロサンゼルスで生まれ育ったSteven Munatones(57歳)氏は、JETプログラム参加者として2年間滋賀県で務めた。TOTO Frontier USAの理事長を務めた後、日本人の発明者と一緒に「KAATSU Global」を設立しました。ハーバード大学の4年生だった1984年に、B. Imrie Memorial Award を受賞した時、「学問や制度の枠組みにとらわれず様々な興味を持っている人物。生きがいや幸せが素晴らしく、一般に認められた習慣等に興味なく、冒険が好きで、体験で学ぶことを望み、どのような難しい状態であっても創造的に対応できる人である。」と言われたことがあります。

石橋への橋渡し

Lindsey Bridges、元栃木県ALT、1997年~1999年

私は7歳頃に日本に対する愛情が芽生えました。当時、仕事の都合で父親が日本へ派遣されていたため、1974〜75年と1979〜85年の間、私たちは東京に住んでいました。ありがたいことに、その間に日本語も学ぶことができたし、その他の多くの独特な日本文化を経験することができました。そのお陰で、私の心の中には、いつか自分の家族ができた時に日本に帰ってきて、私が愛してやまない日本を彼らと共有できるようにしたいという夢ができました。

その夢は叶えられるかどうかはもちろん、いつ叶うか分かりませんでしたが、いつか日本へ戻る道が現れると信じていました。過去の国際経験と日本語能力を駆使し、観光やホスピタリティーを勉強し、日本とオーストラリアでいくつかの仕事をしました。その後、結婚をして2人の子供に恵まれ、数年後の1997年に夢を叶えるチャンスが来た時には感激しました。私は、栃木県石橋町のALTとして任用されました。私たちの名字はブリッジズ(橋)であるため、石橋の漢字の場所は縁起がいいと思いました。「橋」というテーマが、どれほど自分のキャリアに響いてくるのか、その時はわかりませんでした。

1997年当時の石橋町は割と小さな町であり、外国人住民の人数は非常に少なかったため、ALT1人だけでなく、家族が4人も来町して、町民はかなり驚いたそうです。私は日本語を話すことができたが、夫と子供達が全く話せなかったため、大冒険の始まりとなりました。

家族のいるJETプログラム参加者として、旦那さんと子供達が石橋町にスムーズに住み着くことはとても重要でしたが、ありがたいことに、夫は現地の園芸農場で仕事を見つけることができ、5歳の息子と3歳の娘も無事に保育園に入学することができました。3人ともすぐに友達を作って、日本語を学び始めました。大人である夫と子供達とでは日本語能力の上達速度は、一目瞭然でした。娘が
楽しそうに日本語でぺらぺら喋っていると、夫はいつも「分かりません!」と日本語で言います。

ALTとして働いた日々はとても豊でした。週4日は現地の中学校2校へ通って、残り1日は教育委員会で過ごしました。社会人と教員経験があったので、仕事にはすぐ慣れました。働く中での一番の報酬は、生徒や先生方、村人達と交流することで得ることが出来ました多くの人が言語を学ぶだけでなく、活き活きと国際交流に参加しながら心広がるのを感じることが出来たのは、とても貴重な経験でした。夫と子供達は、本人たちは知らずして草の根の国際交流員になりました。

あっというまに1年目は過ぎ去り、2年目は、家族と一緒に七五三、運動会、お祭り、カラオケやパティーなど、たくさんの行事を楽しみました。


「保育園の運動会で娘と私」

「娘(3歳)と息子(5歳)、七五三の格好」

息子の保育園卒業式も祝いました。とてもあらたまった卒業式でした。

「保育園の卒業日;息子は上から2段、左から4人目;娘は一番前段、右から4人目」

石橋町から離れるときはとても感傷的でしたが、たくさんの人との繋がりは現在も残っています。

あの時から、あっという間に20年が過ぎ、「橋渡し」というテーマがキャリアの中でどのように続いていたか分かります。JETプログラムの任用が満了になってから、ホスピタリティーと料理を中心とした、オーストラリアの職業訓練(TAFE)の仕事に戻りました。TAFEに関する仕事をしている間、オーストラリアと日本の教育を繋ぐことに心血を注ぎ、学校間協定、留学生の勉強コース、研修ツアー、教育員交換やインターンシップなどを実現することができました。この職をきっかけに、一流の国際的なホスピタリティー・料理の学校であるル・コルドン・ブルーで働くために日本へ戻ってくることが出来ました。この仕事では、世界的なホスピタリティーの専門家を育成するための新しいプログラムを開発するために、政府、国内および国際的な教育パートナー、産業界との戦略的なパートナーシップを構築しました。

次のステージに向けて、日本の観光事業やホスピタリティー事業に力を入れ、地方に戻って日本の活性化のお手伝いをしたいと思っています。それにより、JET プログラムで草の根の国際交流に貢献した当初の役割に戻ることができると思います。インバウンド観光が飛躍的に増加している今、地域住民と外国人観光客の双方に豊かで調和のとれた体験を提供するために、多言語と多文化の理解を支援することがこれまでになく重要になってきています。

ALTとしての素晴らしい経験に感謝して、プログラムに参加することにお勧めします。JET経験者の皆さん、私たちの中に深く根付いている日本の旅を続けながら、個人的にも職業的にもネットワークを広げていけることを楽しみにしています。

lindseybridges-portraitプロフィール
リンジー・ブリッジズ氏はオーストラリアのメルボルン出身で、1997〜1999栃木県石橋町のALTとして勤めました。総合的に25年間日本に住んで働いた経験があり、現在職業能力開発専門家として教育、産業、政府と交流して、オーストラリアと日本の観光・ホスピタリティー事業をしています。50onsens.comというホームページの作者です。

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