2019年JET Streams春号
JETAA(元JET参加者の会)
JETの向こうに
ナタリー・ン、JETAA-I諮問委員、元静岡県 ALT、2010年~2011年
JETAA-I(The JET Alumni Association International)は約7万人のJET経験者のグローバルなコミュニティに奉仕しています。
私たちの目的は、JET経験者やJETAA支部に対して情報やサービスを提供することであり、活動内容の例については以下のとおりです。また、JET経験者と接触したい人にとっての連絡窓口であり、世界中でより効果的に彼らの集合的な人的資源が活用できるように支援しています。
世界中のJETAA支部と同様に、私たちも完全にボランティアによって運営されています。JETAA-Iの執行体制は、世界中17か国の加盟国から19名のJETAA国代表を含む理事会、そして彼らに仕える役員(会長・副会長)とその補佐機関である諮問委員会・ウェブマスターのコアチームで構成されています。2019年3月時点で、役員のAshlie O’Neill会長(シドニー支部)及びRose Tanasugarn副会長(日本支部)とともに、Megan Buhagiar(AJET全国役員)、Matthew Gillam(ニューヨーク支部)、Ryan Hata(ニューヨーク支部)、Nathalie Ng(シンガポール支部)とXander Peterson(サンフランシスコ支部)が諮問委員会、そしてEden Law(シドニー支部)がウェブマスターとして活動しています。
私たちは、この1年を通じて、世界中のさまざまな支部を支援するため、懸命に活動してきました。ここでいくつかの活動事例を紹介します。
- KenJETkai
- 都道府県を中心としたJETプログラム参加者・経験者のためのリソース
- ゆかりのある都道府県と母国との間の観光及び経済の機会を促進する
- Aims to help JET alumni with after-JET opportunities
- JET経験者の大学院奨学金を給付
(アメリカで実施中、他の国々については調整中) - JETwit job-listings (JETの求人情報 を提供するウェブサイト)
- 長年かけて築いた人材のストックを、JET経験者の採用を検討している企業・団体に提供することにより、JET経験者の雇用を促進するとともに、JETプログラムを広報
- JET経験者による、プログラム終了後及びキャリアについて語るポッドキャストの配信
(iTunesまたはSoundCloud:m.soundcloud.com/lifeafterjet)
- JET経験者の大学院奨学金を給付
- 世界中の支部により良い情報及び支援を行うため、ウェブサイトを改訂
- 2016年の国際会議でJETAA-Iの要綱の改訂による体制の変更
- 国際社会に貢献するためのより積極的な役割を果たしていること
- JET経験者の活動や目標に役立つ情報の宝庫とするために改訂
- 支部やJET経験者の間の連帯を維持するため、小規模または新しい支部の擁立及び立上げ
- 小規模または新しい支部がイベントやカレンダーを実施する際の支援
- JET経験者への働きかけを増やし、JET経験者としての技能の維持を支援
- 世界中に散らばるJETプログラム参加者や経験者のために各支部の行事予定表の作成及び共有
- 全世界の支部の行事概要を提供することが目的
- JETプログラム参加者や経験者が、自身の異動先や訪問先の支部に連絡をとり、その支部の活動に参加できるかどうか確認できる
上記に加えて、現在、JETAA-Iの専門的なブランド展開や、支部が帰国するJET経験者に最善の方法で手を差し伸べ、その目標の達成を支援することに取り組んでいます。また、JETプログラム参加者のメンタルヘルス問題についても懸念しており、JETプログラム参加者への支援資料を提供するため、AJET全国役員でJET経験者関係担当を務めているMeganと協力しています。
JETAA-Iの詳細については、ウェブページをご参照ください。
(www.jetaainternational.org/)
また、感想またはご意見がありましたら今後の事業の参考になりますので、会長までご連絡ください。
(chair@jetaainternational.org)
プロフィール
ナタリーは、シンガポール支部の一員及びJETAA-Iの諮問委員として活躍することでJETプログラムでの日々を追体験しています。彼女は、静岡県でのJETプログラムで得たかけがえのない経験や、彼女自身が来日する前に先輩から受けた恩を、新しいJET参加者を支援することで返したいと思っています。現在は、毎年日本へ小旅行に行くために、照明会社でセールスエンジニアとして働いています。
ジュリアス・パン、元北九州市ALT、2004年~2007年
私はジュリアス・パンと申します。2017年に開始された「ふるさとビジョンプロジェクト」に参加しました。2004年から2007年までALTとして働いていた北九州市で自分のビジョンを実現しました。現在、写真家として働きながら、日本での写真撮影ツアーを専門とするツアー会社も運営しています。
私の「ふるさとビジョンプロジェクト」の狙いは、北九州市の観光PRに活用できる画像や動画を撮影し、北九州市に提供することでした。また、北九州市が観光先として含まれるツアー商品を企画することを長期的な目標にしました。
5日間にわたり、ほぼ毎日のように日の出前から日没後まで、北九州市の数多くの場所を巡って撮影を行いました。撮影した場所の中には、皿倉山からの夜景や工場夜景、TOTOミュージアム、門司港レトロ周辺といった既に知られている場所などもありました。文字通り、北九州市の素晴らしい魅力を垣間見ることができました。プロジェクト実施期間中に撮った写真を紹介します。
「ふるさとビジョンプロジェクト」が終わった後も、引き続き北九州市と連絡を取り合っていました。プロジェクト実施期間中に撮った写真は、台北にある乗降客数の多い駅や関西国際空港及び台湾のツーリズム展示商談会において、大型看板で展示されました。
次のステップとして、北九州市を訪問先として含めるツアー商品を開発することを目標としました。経営しているツアー会社は少人数限定の日本での写真撮影ツアーを専門としているため、北九州市が含まれる九州ツアーは絶対に魅力的なものになると確信しました。
2018年には、北九州市や西日本旅客鉄道株式会社及びTOTO株式会社にご協力いただき、珍しく人里離れた場所を巡る「九州ジャパンツアー」を実施することができました。このツアーでは、数日間にわたり、北九州市を宿泊・観光の基点とし、九州の素晴らしい景色を紹介しました。2019年にもこのツアーを開催しますので、是非以下のリンクにて行程表をご覧ください。
incrediblephototours.com/tours/kyushu-japan-tour/
2018年10月28日から11月11日まで、「九州ジャパンツアー」を実施し、オーストラリアやイギリスから3名の方に参加していただきました。2週間のツアーの中で、北九州市に4日間過ごした他、屋久島、高千穂峡、唐津くんち、軍艦島、阿蘇山などにも訪れました。さらには、西日本旅客鉄道株式会社の新幹線の車両基地も訪問することができました。
2019年の秋には、引き続き九州ツアーを開催し、新たに参加される方に九州の魅力を紹介するのを楽しみにしています。
「ふるさとビジョンプロジェクト」の参加者として選定していただいた自治体国際化協会及び北九州市に心から感謝します。本プロジェクトの成果物が北九州市の観光PRに貢献できたことを、非常に喜ばしく思います。自分が発案したビジョンの実現にあたって、裏方でいろいろとサポートをしていただいた自治体国際化協会のミン氏及び北九州市の白石氏や勝原氏に殊に感謝しています。また、TOTO株式会社、西日本旅客鉄道株式会社及び株式会社安川電機におかれましたは、各施設への特別な立入許可を与えていただき、心よりお礼申し上げます。
まだあまり人々に知られていない日本の地方の知名度向上において、「ふるさとビジョンプロジェクト」は今後も重要な役割を果たしていくと信じています。将来、本プロジェクトに参加するJET経験者には、自分の「第二のふるさと」の創生・推進に大いに貢献できるよう願っています。
プロフィール
ジュリアス・パン氏はオーストラリアのパース市出身です。現在、写真家や「インクリディブル・フォト・ツアーズ」のガイド兼オーナーとして活躍しています。ジュリアス氏は2004年〜2007年の間にALTとして北九州市で働いていました。JETプログラムを終了後、ウェブデザイナーとして数年間勤務した後、写真業界への転職を決断しました。2015年に「インクレディブル・フォト・ツアーズ」という写真撮影ツアーを専門とするツアー会社を起業しました。
2008年からJETAA西オーストラリア支部(jetaawa.com/)の役員としても活躍し、本支部のメディアやウェブサイトの運営を担当しています。ジュリアス氏の作品については、インスタグラム(instagram.com/juliuspang)及びウェブサイト(incrediblephototours.com)でご覧いただけます。
アダム・コミサロフ、元埼玉県ALT、1990年~1992年
慶應義塾大学文学部教授であり、異文化コミュニケーションを教えているKomisarof氏にインタービューしました。1990年から1992年まで埼玉県でJETプログラムに参加した経験のあるKomisarof氏は、JETプログラム来日直後オリエンテーションだけではなく、長年企業向けに異文化コミュニケーション研修も実施しています。このインタービュー記事の前半では、彼が日本での生活を振り返り、また日本に来たいと考えているJETプログラム経験者や、引き続き日本に住み続けたいと思っているJET参加者にアドバイスをします。JET Streams夏号に続く記事の後半では、日本の大学教員への道について詳しく掲載します。
まず、なぜJETプログラムを選びましたか。まず、なぜJETプログラムを選びましたか。
元々日本に興味があったことと、アメリカの文化とは全く異なる文化の中で英語を教えたかったからです。当時、JETプログラムに参加するという選択は、自分の周りの大学や高校時代の友人とは異なるものでした。これまでの人生の中で私は、困難ではあるけれども後悔することのない多くのユニークな選択をしてきました。この選択もその一つです。
JETプログラムは30年以上続いています。この間、JETプログラムにどのような変化があったか、また、地方の国際化が進んだ今、外国語指導助手の必要性についてご意見をお聞かせください。
JETプログラムのお蔭で、英語教育がより身近なものとなったと思います。コミュニケーションを重視した英語教育とJETプログラムのゴールは、日本のみなさんにとってなじみのあるものとなっています。また、今のJETプログラムは、昔と比べて、より職務内容や責任範囲について明確に定義できていると思います。
私が参加していた時は、JET参加者も学校関係者もALTの役割について現在ほど明確にわかっていませんでした。派遣された学校では、過去にALTが1人しかいませんでした。また彼女が途中で退職してしまったせいか、私が勤務し続けるためにも学校の先生方は、私が素晴らしい体験ができるように色々とサポートしてくれました。もしかしたら、校長先生は当時の先生方に、私を自宅に招待するように言っていたのかもしれません(笑)。いつも先生方の家に誘ってもらい、当時はこれが普通なのだと思っていました。ほぼ2週間に1回は誰かの家にお邪魔していましたね。とても楽しかったです。また外食にもよく連れて行ってもらいました。その時何か自分のことについて話したら、翌日にはもうみんながそのことを知っていたということもありましたね。
面白い話があります。来日後一か月が経ったある日、翌日の昼食を買いにスーパーへ行ったところ、袋の中に入ったうどんを見かけたので買いました。翌日それを学校に持って行き、袋からうどんを出してそのまま食べた瞬間「まずいっ!」と思って食べるのをやめたことがありました。何とそれは生のうどんだったのです。それから半年後、学校で英語の先生と話していると、彼がいきなり笑いながら、「去年の夏、Komisarof先生が生のうどんを食べていたのを見たよ」と言ったことがありました。(笑)「え、なんでそのことを知っているの?その時に教えてくれていたら食べなかったのに!」と思いました。(笑)
当時は、日本で何をしても本当に注目されましたし、特に何か失敗した時はさらに目立ちました。いつも周りから見られているような気がしていました。今は、外国人が周りにいることが普通であり、日本人もこれまでに配属されたALT又はCIRの行動を見てきています。そのため、新しく来たJET参加者がこの新しい文化の中で何かミスをしても、日本人がそれほど驚くことはありません。一方で、今は昔のような特別な存在感が外国人に対してないため「私がここにいる必要が本当にあるのか」と思ってしまう人もいるかもしれません。
先日、安倍政権が進めている出入国管理及び難民認定法改正案について、新聞の記事を読んでいました。その記事の著者はJETプログラムが大成功であったと説明していました。JETプログラムは重要な日本の社会制度の一つである学校に外国人労働力を導入することに成功を収めたとのことでした。どのプログラムも完璧ではありませんが、全般的にJETプログラムは大成功だったと思います。
小学校の英語教育が早期化されますが、ALTよりも英語や教育に関わる資格を持つ教員を置いたほうがいいと思われますか。
生徒への教育という視点からは、JET参加者の中で教育分野での経験や資格を持っている人のために、特別なポジションがあったらいいかもしれません。例えば教員資格を持っているALTには特別手当が支給される、また長期間の契約が可能など。ただ、日本人の先生は、日本で教員になるために厳しい教職課程を履修しなければならないので、外国人の教員が同じ課程を取らないと不公平に感じるかもしれません。また、教員分野の経験や資格を持っていないALTも日本の学校や地域コミュニティーに重要な貢献をしていると思います。
私は大学で教育学を専攻したので、来日した時には教員としてのトレーニングは受けていました。学校では、日本人の先生が、私一人で授業を計画するようにしてくれました。日本の先生方の信頼を得た後は、チームティーチングをする必要もなくなりました。英語に興味がある先生からも、授業計画を任してもらえました。結局、私が授業計画をして、ほとんどの授業も行うことができました。そういう意味では、私は職員会議には出席できなかったけれども「普通の教員」でした。
日本では「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、目立つことや、人と異なることをしたくないという傾向もありますね。例えば、学校では言語能力が高くても、注目されたくないと思っている学生も結構いますね。
クラスの中で他の生徒と自分が同じレベルでない場合、自分を活かすことができる機会があっても控えめになる学生はいますよね。私自身がこういう社会的なプレッシャーに対して取る方法としては、必要な時には目立たないように状況に従い、それ以外の場合においてはリラックスして自分らしくいるようにしています。例えば、私は「オヤジギャグ」をよく使います。学生たちは、一応先生が言うことに笑わないといけないと思うためかジョークを笑い、そして楽しんでいるようです。私の場合は、外国人であることにより、ある程度の自由がありますが、それでも日本で自分らしさを日本社会で表現できるように長年工夫をしてきました。昔は、自分の中に「完璧な日本人の働き方」という強固なイメージがあり、それに従わなければならないと思い込んでいました。そのおかげもあって、職場同僚と信頼を築くことができました。しかし、「完璧な日本人」イメージから離れたからこそ、日本で暮らすことがもっと楽しくなりました。
慶應義塾大学では、いつからお勤めされているのですか。
常勤の教員としては今年で4年目です。1999年からは非常勤で務めていました。その前は別の二つの大学で常勤の教員として勤務していました。
成功されていますね。子供の頃から日本に永住したいと思っていましたか。また、日本に来る前に日本語を勉強していましたか。
日本に永住することは考えもしなかったです。幼い頃からさまざまな文化的背景を持つ知り合いが多くいました。また、大学卒業後は、アメリカ以外の国に住んでみたかいとは思っていました。ただ、来日前は、カナダのナイアガラの滝に日帰り旅行をした以外は海外経験が全くありませんでした。ブラウン大学在学中、一緒に社会学の授業を受けていた日本出身の学生とお互いをインタビューし合うという課題がありました。彼の家庭はお父さんがオーストラリア人、お母さんが日本人で、家族や日本での生活について色々と話してくれました。その経験から日本で英語を教えることにとても興味を持ち、JETプログラムに応募しました。そして日本にやって来たのですが、最初の数か月間、日本語を勉強したいとは思いませんでした。なぜなら高校のフランス語の授業で、取るに足らない小さな文法の間違いでも先生に赤ペンでびっしり添削された経験があったため、言語を学ぶ気が削がれていました。そのため、今英語を勉強している日本人の生徒の中で文法的なミスばかりを直された経験をした人の気持ちはわかります。日本人の皆さんとコミュニケーションをしたいと思っていたものの、高校の時の経験から言語を学ぼうとは思っていませんでした。しかし、会話をするためには日本語を学ばなければならないとすぐに気付き、日本語を勉強し始めました。
日本語を勉強し始めたところ、2つのメリットがありました。まずは、言語が日本人の考えに及ぼす影響を私が理解するのを助けてくれました。同時に、自分の将来は日本に繋がっているかもしれないと感じ始めました。努力すればするほど周りの日本人と深く関わり合えましたし、多くの外国人にはないスキルも取得できました。こうしてJETプログラムに2年間参加し、いよいよ母国に帰ろうと思いました。最初から日本には2年間いるつもりでした。いつか日本に戻りたいとは思いながらも、一旦アメリカに帰って、自分のアイデンティティを改めて確かめたいと考えたのです。JETプログラム参加者は終了後、一度母国に帰ってみることをお勧めします。そうすることで日本での成功はただ単に自分が外国人であったから達成できたのではなく、自分に本物のスキルが身についていたからだと気づき、自分がどこに行っても同じように成功していけると感じることができるからです。フランク・シナトラが「ここでやっていけたなら、どこでもやっていける」と歌ったようですね(笑)。JETプログラムを終了した後はシアトル市の近くにある私立学校で3年間、日本語とアジア学を教えました。その後ボストンに移り住み、大学で1年半、英語を教えました。それらの体験から、アメリカでも自分はプロフェッショナルとしてやっていけると感じることができたため、自信をもって再び日本に戻る準備ができました。もし、アメリカに戻っていなければ、「日本でしか暮らすことができない」と感じていたかもしれないので、アメリカに戻り自信をつけることができて良かったです。そしてロータリークラブの奨学金を得て1年間日本で日本語を勉強することになったのです。アメリカ滞在中に出会った日本人の妻と一緒に来日し、再び日本で暮らし始めました。また日本の大学で非常勤講師として英語を教え始めました。
それは、アメリカではなく、日本にずっと戻りたかったということでしょうか?
日本に戻った際は、どちらの道も可能と考えていました。最初は仕事や生活などの様子を見ながら暮らし、その上でアメリカに戻るのか日本に住み続けるのか決めようと妻と話していました。そして1年目の終わりごろ、ある新設の大学から常勤講師に採用が決まったので、日本に住み続けることにしたのです。日本で再び働き始めてから、スキルや能力があることはもちろんのこと、人間性も重要であることを理解しました。
「人間性」ですか。異文化を受け入れ、感謝の気持ちを表すと、相手からも歓迎されやすくなりますね。
順応性がありそして異文化を受け入れる姿勢があることが相手に通じると、受け入れてもらいやすくなるのは確かです。一緒に働きやすく、付き合いやすい人であることが重要です。日本での就職を考えているJETプログラム参加者は面接で、自分が順応性があることもアピールしたほうがいいかもしれません。職場での日常生活において意見が食い違う時は当然有りますが、建設的に一緒に解決していくことが大切です。
日本における生活に適応するのに苦労する人も多いようですが、そういう人に対して新しい環境に慣れるにはどうすれば良いかアドバイスをお願いします。
私がよく話すのは高コンテキストと低コンテキストのコミュニケーションの概念です。高コンテキストコミュニケーションは非言語重視で、間接的であり、衝突を避けて良い人間関係を維持することが重要視されているスタイルです。高コンキストコミュニケーションをとる人は、相手が伝えようとしていることや、行間に込められている意味を観察や傾聴を通じて察しようとします。日本ではよく「一を聞いて、十を知る」と言われています。その一方で、低コンテキストコミュニケーションをとる傾向が多い文化では、より言語重視で、物事を明白に伝えることが多く、意見の相違を認めることもOKです。もちろん低コンテキストコミュニケ―ションをとる日本人もいますが、日本人はどちらかというと高コンテキストを取る傾向があります。もちろん一つのスタイルがある文化の全ての人に当てはまるわけではありませんが、傾向を見ることはできます。もし、JET参加者が日本のコミュニケーションのスタイルに合わせて、高コンテキストコミュニケーションを取り入れることができたら、日本に適応しやすくなると思います。ここで申し訳ないですが、私が執筆した本の紹介をさせていただきます。「At Home Abroad: The Contemporary Western Experience in Japan」は、15~55年間日本に滞在した経験がある外国人へのインタービューを元にしたものです。その外国人達の日本における仕事や人間関係における成功要因を、この本では明らかにしています。
異文化に適応するにはどうしたらよいでしょうか。
日本での生活に適応できた外国人であれば、一緒に働く日本人も安心して、一緒に働きやすいと思うでしょう。その後母国に帰ると、多様な文化を持つ人たちと一緒に仕事をした経験があると言えることは大きな強みとなります。
将来再び日本に戻って来ても、コミュニティーに受け入れてもらえないのではないかと心配するJET参加者に対してアドバイスいただけますか?
私から現役JETプログラム参加者へのアドバイスは、今の人間関係をできるだけ楽しむことです。JETプログラム後に長期にわたる日本での仕事を得て、日本に適応する努力をし続けると、日本社会で深く受け入れてもらえるようになります。
自分のコミュニティーが見つからない人はどうしたらよいでしょうか。
JETプログラム終了後アメリカのシアトル市近郊のタコマ市に帰国した時の私は、正にそのような状況でした。というのは、母国であっても仲良くできる人に出会うのに1年間弱かかりました。最初の1年間は出かけて、新しい人に会って、講義に参加したりするように努めました。また、その時に異文化間コミュニケーションの分野にも出会いました。東京では、どんな趣味に関してもSNS等を通じて仲間を探せます。とりあえずできるだけ外に出て、どのような分野で仲間を作りたいのか考えてみてください。ハイキングが好きならハイキングのグループに参加するのもいいですし、演劇が好きなら、東京の演劇グループに入るのもいいでしょう。自分の趣味を見つけて、そのグループに仲間入りすることです。一歩外に踏み出すことが大切です。
(2019年夏号につづく)
プロフィール
アダム・コミサロフ氏はアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア市出身。1990年から1992年まで、埼玉県でALTとして働き、現在は、慶應義塾大学文学部で教授として勤務。JETプログラムに関する3編の研究論文を発表し、異文化間コミュニケーションについて多くの書籍と論文を出版した。日本に住んで23年。イギリスのオックスフォード大学で1年間在外研究をしたことがある。また、日本、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカにおいて多国籍企業を対象に異文化間コミュニケーション・トレーニングを20年間以上実施してきている。さらに、JETプログラムの国内及び地方研修においてワークショップを26回実施した。異文化理解及び平和的な人間関係を促進する目的の研究組織「International Academy for Intercultural Research(学会)」の副会長(次期会長)である。
リリアン・ローラット、元新潟県柏崎市ALT、2003年~2005年
「この経験は、実用的だろうか…」
JETプログラムに参加する人の理由はいろいろあります。海外生活に挑戦したい、有意義な教育経験を得たい、さらには、就職の進路について決断を延期したいといった理由の方もいます。
私はJETプログラムのALTとして、新潟県柏崎市で最高に楽しい2年間を過ごしました。私の片親が日本人で、ずっと日本との繋がりを強く感じ、母国でのキャリアを始める前に自分のルーツをより詳しく知りたかったです。そして、JETプログラムに参加したことで、さらに強い繋がりを感じることができました。
日本文化と「英語が大好き」な気持ちを共有したいと望む生徒、温かく歓迎してくれた先生方やコミュニティーの一員として仲良くしてくれた町の人々など、日本に住んでいる間、たくさんの素晴らしい人に出会いました。いつも皆さんが食事やイベントに誘ってくれました。
柏崎市在住期間満了時の寂しさの原因は、間違いなく、出会った人たちとの関係によるものです。帰国する時、「どうやってこの素敵な経験を今後に活かすことができるだろうか。海外に住む経験や異文化学習・交流や日本語能力の取得はもちろん、これらのスキルが将来に関係するのだろうか。」と考えていました。
学生時代、数学を専攻していたので(子供時代はKUMONで勉強しました!)、金融・資本市場関係の仕事に就きました。日本で暮らした経験との関係が特にありませんでしたが、履歴書には興味のある話題として日本での経験を記載し、自分のキャリアを積むことに集中しました。偶然にも、ニューヨークで日本の株式市場に関する求人情報を発見しました。JETプログラムの経験のお蔭で、日本に対するユニークな視点や知識を持つことができましたので、数か月後マンハッタンを拠点として頻繁に東京へ出張に行きました。日本市場の活動について検討することが日常業務となりました。
仕事と日本への愛情を結びつけることができ大変うれしかったです。しかし、時間が経つにつれ、経済だけではなくて、私にとって大切な日本の文化や伝統等を宣伝したいという気持ちが日に日に増すようになりました。日本在住期間に築いた人間関係は貴重で、その経験を少しでも他人と共有したかったです。でもどうやって共有できるのか知りませんでした。
そして杉山亜希さんと出会いました。
訪日中に共通の友達の紹介で会いました。二人とも同じような金融関係の仕事をしていたことや健康に対する情熱を持っていたのですぐに仲良くなりました。
東京に滞在中、食事の席で初めて会ったので、食べ物の話が自然と話題になりました。私たちは、人が幸福と感じる一つに食事があるという同じ意見を持っていました。また、和食の健康性についても話しました。同じく二人とも重要と感じたことは、食べ物が人々を結びつけて、文化交流を促進する力となることでした。二人の「その考えを多くの人に共有したい」という想いが「Kokoro Care Packages」のきっかけとなりました。
「Kokoro Care Packages」とは、会員制で高品質の日本食材等を世界中の人に配送する事業です。各地域の生産者の方々が心を込めて作る、海外では入手が難しい自然の食品・商品に限っています。世界中の人と日本の食べ物や味を繋げるだけではなくて、会員へ生産者の紹介をしています。商品に対しての情熱や生産地の特徴等も顧客に伝わるようにしています。私たちは「食」が人々や文化理解に繋ぐ最もふさわしい方法だと思っており、「Kokoro Care Packages」によって日本の精神を各国の人々と共有しています。
もし、誰かがALTだったころの私に「2019年は何をしていると思いますか」と尋ねていたら、このような企業の共同創設者として日本の良さを配信していることを絶対に予想できませんでした。大好きな日本との個人的な絆の結びつきだけではなく、数年間をかけて知り合うことができた素晴らしい人や文化の魅力を紹介することができるのです。
JETプログラムの参加で身に付けた能力・経験等は、仕事等にどのような影響を与えるのか明確ではないかもしれませんが、もし新しい機会や可能性を受け入れるならば、あなたの生きがいになるかもしれません。
プロフィール
リリアン・ローラットさんは現在ロサンゼルス在住で片方の親が日本人であるカナダ人です。多くの人と日本の文化や伝統を繋ぐ、「Kokoro Care Packages」を杉山亜希さんと一緒に共同創設しました。「Kokoro Care Packages」は、会員制度で高品質の日本食材等を世界中の人に月又は季節毎に配送しています。各パッケージは、各地域の生産者の方々が心を込めて作った自然の食品・商品を含みます。
詳しくは:www.kokorocares.com、@kokorocares
問合せは:lillian@kokorocares.com
サラ・レック、元神戸市ALT、2013年~2018年
大学を卒業してすぐJETプログラム参加者として来日しました。今まで習ったことや支えてくれた方達との間に、海と山ほどの隔たりが生じるということは、予想していました。しかし、当時まだ知らなかったことは、物理的な距離以外に、他にもある様々な距離への対処について学ぶ必要があることでした。
生まれ育った国から離れ、価値観や言語が異なる人々に囲まれた中で大人になることは、人によっては不快な経験でもあります。私の場合は、自己発見や新しいアイデンティティの創出、自主自立で得た色々な経験を重ねる機会となりました。私はもはや不器用で恥ずかしがりな23歳ではありません。当時は、週末のパーティーに誘われても、洗濯を理由に断ることもありました。日本の暑い夏であれば、その言い訳は通じるでしょう。その頃の私と比べると成長しましたが、全く変わったわけでもありません。
この数年間に、たくさんの経験をし、スキルなどを身に付け、友人・同僚・知り合いの人脈を広げ、所属するコミュニティーにおいてある程度の良い評判を確立しました。しかし、その結果、「過去の私」と「現在の私」の間にも距離が開いてしまいました。このような私の変化をずっと見守ってきた人は多くはありません。初めて会う人が私の素性を知らずに「現在の私」を見て判断する時は、よそよそしく感じることがあります。人の出入りが激しい社会で、時間を割いてまで他人の話を聞いてくれる人はあまりいないでしょう。
出会いと別れが当たり前な環境では、すぐ仲良くなることや別れを惜しむことに慣れてきます。いつでもすぐ会うことのできた友達が今では、飛行機に16時間乗らないと会えないですし、週末の予定を簡単にメールで調整していた友達とは、時差を計算しながらビデオ通話をしなければならないです。このような関係が1年、2年という短期間に繰り返されると、人生は出会いと別れの連続だということに気付いてしまい、ある意味で辛いです。人はそれぞれ生活スタイルが違い、それをお互い理解するのは難しいです。
周りの人からよくホームシックになるかどうか尋ねられましたが、「ならない」といつも答えていました。長い休みの時、母国ではなく第三国に行くと同僚に伝えると、よく「意外」と言われました。同僚は機会がある時に必ず母国へ帰る義務があると考えていたそうです。家族や友達と離れていることは嫌ではありません。アメリカ、カナダ、シンガポール、オーストラリアと南アフリカ、世界各国に親戚や友達がいます。家族はまだ私が育った家に住んでいます。仕事が多忙ではない時でも、友達とは月一回程度しか会っていませんでした。しかし、会わない期間が長くなると不満を言ってくるので嬉しいです。恋人とも約11,000キロメートル、14時間の時差で離れています。
昔は、物理的な距離を気にしていませんでしたが、時間の経過とともに意識し始めました。友達の結婚式に出席できず、彼らの子供に会うことはしばらくないかもしれません。きょうだいに、両親の健康上の都合を理由に帰国してほしいと連絡がありました。日本にいる親友は、約2年前に私の後押しで交際を始めた人と近々結婚します。また、最近、仲の良い友人のおじいさんが亡くなったので傍にいて力になりたいのですが、飛行機に乗る必要があることから直ぐには行くことができません。
このような世界の中で、なぜここにいるのか。私の役割は何か。
自分の夢を叶えようとしつつ、自分自身に問う質問があります。私の決めた道を歩むと、遠くにいる愛しい人のために、何を諦めなければならないのか。どのように決めた方がいいのか。保守的な親から自由になって自分の理想的な人生を生きるため、遠く離れて暮らす必要はあるのか。
定期的に地元に帰るために航空券の値段や友達の結婚式で着る服を買うためにお店をチェックしていても、正解は無いと知っています。あるのは選択だけだと。
プロフィール
サラ・レック
神戸市ALT(2013年~2018年)
KOBE PR アンバサダー(2016年~2019年)
新進のライター、アマチュア写真家で、放浪癖のあるロマンチストです。趣味はトリビュートバンド「Panic! @ the Daiso」のベース担当、暇な時のウクレレ練習、ジムでの運動、砂浜での日焼けやベッドでの詩読みです。