JET Streams – 第60号(2025年夏号)
クレアコーナー(自治体国際化協会からの記事、お知らせなど)
JETの向こう(JET経験者からの記事)
2025年の夏号へようこそ!
自治体国際化協会(CLAIR)JETプログラム事業部
いつも「JET Streams」をお読みいただき、ありがとうございます。JETプログラム事業部です。
10月になり、東京もようやく涼しくなってきました。
今夏は気温が41℃を超える日もあり、とても厳しい暑さでしたので、秋の訪れを楽しみにしています。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
さて、今号も盛りだくさんの内容でお届けします。
JET経験者による体験談や活動のご紹介に加え、今年の7月・8月に来日した新規JET参加者のオリエンテーションの様子をお伝えします。
今号の記事が、皆さまにとって楽しく、かつ有益なものとなれば幸いです。また、ご自身のストーリーを共有いただける場合は、以下のリンクから詳細をご確認ください。
皆様にとって素晴らしい秋をお祈り申し上げます。
また冬号のJET Streamsで会いましょう!
JETプログラム夏来日直後オリエンテーション(7月と8月来日)
新規JETプログラム参加者、日本での活動をスタート
2025 年夏から全国各地の任用団体に配置される新規JET プログラム参加者に対するオリエンテーションを、7月28 日、29日と8月4日、5日の2回にわたって開催しました。
JET プログラムでは、世界各国から外国語指導助手(ALT)、国際交流員(CIR)、スポーツ国際交流員(SEA)を招致して全国に配置しており、2025 年度には約5,900人が語学指導や地域の国際交流活動に従事しています。
今年は約1,300名の新規参加者が来日し、今回初めてグレナダとブータンからの参加者も加わりました。オリエンテーションでは、組織や地域に参加する心構えや日本のマナーから、学校での指導方法や翻訳・通訳業務のノウハウといった実践的な知識まで、それぞれの職種に合わせた研修を幅広く取り扱いました。令和7年度に文部科学省の方により新しいチームティーチングについての講義があり、より深く先生同士の協力について学ばせました。また、JETプログラム参加者のために用意した新しいオンライン日本語講座を紹介し、使い方を教えました。

ALT用言語指導についての講座の様子
2日間の研修を終えた参加者は、期待を胸にそれぞれの任用団体の元へと旅立っていきました。今後の皆さんのご活躍を期待しています!
JET経験で見える振り返り
JET経験を懐かしむ気持ちと、日本と無縁のキャリアをどう両立させるか
谷へ車を走らせると、8年前に鹿児島県曽於市を離れたときと同じ場所に、弥五郎どんが立っているのが見えました。空を背に堂々と立つその姿を見て、この町で過ごした5年間を思い出し、懐かしさを覚えました。
私は2011年から2016年まで、曽於市でALT(外国語指導助手)として勤務していました。2011年当時は、この町についてGoogleで調べても情報がほとんどなく、まして英語では全く見つからなかったことを振り返り、婚約者と笑いました。また、学校の休み期間中は、町の伝承や祭りについて、地元のWikipediaのページを更新したことも思い出しました。その他にも、1日2校を昼休みに車で回り、9つの小学校と1つの中学校を掛け持ちしていた話は、今では少し誇張した物語のように感じられます。地元の友人から「電車はどうやって使うのか」と聞かれることもありましたが、この地域にはもう鉄道がないため、その質問が可笑しく思えることもあります。
迫力の弥五郎どん!
曽於市に戻ることは、曽於市を離れてからの目標でした。この思いは、九州を一度も訪れたことのない現在のパートナーと結婚してから、さらに強まりました。
コロナ禍で海外旅行ができなくなった頃からだけでなく、2018年に日本とは無関係の分野で新しいスキルを身につける決断をして以来、鹿児島は思っていたよりも遠く感じるようになりました。九州での思い出を振り返り、かつてよく訪れた場所を指さして語るうちに、直接のつながりがなくても、日本での経験が現在の仕事や生活に大きく影響していることに気づきました。
旅は東京から始まりました。多くの旅行者と同じように首都を起点とし、パートナーを日本語の知識がないと訪れにくい場所に案内しました。歴史ある鉄道路線、新潟の「光の館」、1930年代から営業を続ける大阪のカフェでの食事、直島、そして旅の中心の鹿児島へ行きました。

宮崎・青島神社にて
ALT時代は、短期休暇や連休を活用して短時間で効率よく移動する旅に慣れていました。この経験は、他者の勤務スケジュールを管理し、納期に合わせた計画を立てる現在の仕事にも役立っています。当時、私が勤務していた10校それぞれが異なる要望を持っていたため、それらに対応した経験は複雑な業務を整理する力も養いました。
また、旅行中は、日本での生活や仕事についての思い出を多く語りました。再び日本に来ると、「ここで働き続けるべきだったのではないか」「離れないほうがよかったのではないか」という考えが浮かびました。
1週間の旅を経て、宮崎空港に到着しました。東京や大都市は、当時の記憶にある日本とは異なる印象であったため、なじみのある方言や声を耳にできたことがうれしく感じました。気候が暖かくなるにつれて、人々の雰囲気も和らぎました。レンタカーを借りる際、窓口の女性が少し緊張している様子でしたが、かつて鹿児島で日本の運転免許を持っていたと伝えると表情が和らぎ、宮崎の観光地を教えてくれました。地方で暮らしていた頃は、こうしたやりとりに戸惑うこともありましたが、地元の話題で会話を広げる技術を身につけ、「鹿児島弁がうまい」と言われることもありました。この技術はオーストラリアに移住した際に友人を作る助けとなり、現在の仕事にも生かされています。
山間部の曲がりくねった霧の道や、白線のない道路を走ると、かつての感覚がすぐによみがえりました。再び「かつての故郷」に戻り、懐かしい料理を味わい、よく訪れた神社を巡り、地方ならではのもてなしを受けました。一方で、離れていた間の変化も実感しました。友人には子どもが生まれ、かつての同僚は私に気づかず、教え子たちはすっかり大人になっていました。フェリーから桜島を眺めながら、自分自身の変化にも気づきました。

越後妻有「光の館」―パートナーのバケットリスト達成
日本を離れた後は、再び学び直し、オーストラリア国籍を取得し、日本とは関係のない分野で専門性を高めました。以前は、この場所に戻れば再び日本に引き込まれると思っていましたが、今はそうは感じません。日常生活で日本と関わらなくなったとき、その部分は一度棚にしまい、今回取り出してみても、以前のようには馴染まないと感じました。
JETプログラムでの経験を思い返すと、日本を離れることは、築いたつながりを手放すことのように思えるかもしれません。しかし、今では、その経験が私の人生に深く刻まれ、現在の自分を形作っていると分かります。帰宅すると靴を脱ぎ、部屋の空気を入れ替え、旅行先では友人に小さなお土産を買い、他の人のグラスに最初に飲み物を注ぐ――そうした習慣は今も続いており、JETプログラムで過ごした日々が、無意識のうちに思い出されることがあります。
伝説は置いてきましたが、そこから得た教訓は今も私の中にあります。

- SNS:
- @travelwithmei
第二の故郷との出会い
気づかなかった宝物との出会い
コミュニティ

瑞穂ハイランド
JETの配置先を知らされたとき、私は少し戸惑いました。名前すら聞いたことのない県、まして山間部の町に行くことになるとは思ってもいなかったからです。期待と同時に不安もありました。果たして人とつながることができるのか。何をすればいいのか。
しかし、到着してみると、島根県邑南町で想像以上に活気のあるコミュニティに出会いました。中国山地の真ん中に位置するこの町では、石見神楽や生け花、太鼓、田植囃子など、さまざまな伝統が受け継がれ、力強く息づいていました。人口1万人未満の町でありながら、誰かが常に何かに取り組んでいて、活気にあふれていました。活動は町内にとどまらず、川本町、美郷町、さらには県境を越えて広島県北広島町との交流も盛んでした。

さらに、地元のコミュニティだけでなく、島根県のJETプログラム参加者のコミュニティも同じように温かく迎え入れてくれました。また、AJETコミュニティは年間を通して県内を巡るイベントを開催しており、どこに行っても道案内をしてくれる人がいて、その地域を一緒に探索してくれる仲間がいました。
そして、この魅力は勤務時間外だけに限りません。勤務先の学校や教育委員会でも、先生方、生徒、同僚たちがコミュニティを築く上で欠かせない存在でした。私は1日の大半を彼らと過ごしました。質問に答えてくれたり、逆に質問してくれたり、これまでALTが関わったことのない部活動や研修にも参加させてもらいました。まるで家にいるかのような安心感を覚えました。
JETでの自己発見

2019年にアメリカを離れるとき、私は自分のことをある程度理解し、計画も立てていると思っていました。教育の経験を積み、その後は国際ビジネスのコンサルティングに転向する――そんな道筋です。趣味はゲームと旅行。友情、知識、奉仕、道徳、そして卓越という価値観に従って生きているつもりでした。そのため、かつて若い頃に打ち込んだスポーツ、キャンプ、音楽などは、もう自分の中では過去のもので、再び取り組む機会はないと思っていました。
しかし、邑南町に来てから、まだ自分の中に眠っていた部分や、これまで十分に掘り下げてこなかった価値観が、砂の中に埋もれた宝物が顔をのぞかせるように、姿を見せ始めました。

着任して最初の週に、前任のCIRから、地元の太鼓グループ「石見あらがね太鼓」の体験に誘われました。今では第二の家族とも言える存在です。最初の体験だけでも、長く忘れていたものを思い出す感覚がありました。それは音楽への愛です。中学・高校時代にサックスで演奏していた音楽とはまったく異なるものでしたが、本質的には同じ自由な表現であり、音がぴったりと合ったときの喜び、演奏後の観客の笑顔、練習中の葛藤や励まし、笑い合い――そのすべてが、失っていた自分の一部を取り戻したかのように感じさせてくれました。

到着から数か月後、島根のJETコミュニティによる歓迎会がありました。人口が少ない県であるため、大きな集会場所はあまりなく、県が広く分散していることから、全員が集まれる場所が必要でした。三瓶山のふもとで行われたバーベキューと、その流れで山登りに参加し、再び自分の中にアウトドアへの情熱が芽生えたのを感じました。同じ気持ちの人は他にもいたようで、その後は各自の任地を訪ね合ったり、富士山に登ったり、星空を眺めながら夜を過ごしたりしました。また、島根のJET仲間や同僚のおかげで、初めてスノーボードにも挑戦しました。今ではすっかり夢中ですが、決して上手とは言えません。これもまた、かつての自分を取り戻し、さらに新たな自分を見つけるきっかけとなりました。
大学に入ったとき、私は本心から好きではない道――ビジネスを専攻しました。ただし、国際ビジネスにすれば語学を学ぶことができると考え、日本語とドイツ語を大学で学びました。最終学年では、短期間でしたが教育の経験も得ることができたため気に入っていました。それだけで進路を根本から変えるほどか――そう自問しながらも、再び一から学び直す覚悟を持ちました。そしてJETでの経験が、その答えを固めました。「はい」。私は助けたい、情報を伝えたい、次世代のために全力を尽くしたい。邑南町に着任してから3年目には再び音楽を生かし、学校の吹奏楽部でサックスを教え始め、北広島町の地元フットサルクラブでもコーチを務めました。これもまた、初めて明らかになった新たな自分であり、最も重要な部分のひとつと言えます。

残念ながら、私の在任期間の多くは新型コロナウイルスの影響を受けました。集まりは減り、時には突然中止になることもありました。しかし、その期間を共に過ごしたことで、関わった人々との間に強い絆が生まれました。信頼し、頼り、同時に私も信頼され、頼られる存在になれたと感じています。美しい景色は確かに魅力的ですが、私がこの町を「第二の故郷」と呼ぶようになったのは、私を再び自分らしくしてくれた、この素晴らしいコミュニティのおかげです。
JET後の歩み
5年目の任期を終えるにあたり、私は3つの選択肢を前にしていました。帰国して教育職に就く、大都市へ移って放課後プログラムの講師をする、または現職の自治体に残る。私は、この町が自分を再び自分らしくしてくれたことへの恩返しが必要だと感じ、邑南町初の外国語指導員兼JETプログラム・コーディネーターとして働くことを選びました。
着任当初から日常会話レベルの日本語を話せたため、手続きや病院などで同僚が苦労していたような場面も比較的スムーズに乗り越えられました。そこでこの職務を通じて、学校・生徒・地域の関係をより良くし、可能な限り生活上の困難を減らしながら、JETプログラム参加者が地域に根ざす手伝いをしたいと考えました。JETコミュニティを支援することで、かつて自分が受けた支えを恩返ししていきたいと思っています。

もう一つの大きな役割は町の英語教育の支援です。町内11校の情報共有や、小学校教員向け研修、英語イベントの企画、保育園や低学年の授業にも入っています。未来の世代を育て、この町と世界をつなぐために、好奇心や理解を育み、「世界を学ぶことは楽しい」ということを伝えています。
この職務は新たな試みであり、試行錯誤の連続です。しかし、前例のない役職を始められたのは、これまで築いてきた地域との強い信頼関係のおかげです。友人との絆、知識の共有、そしてコミュニティへの貢献を通じて、正しい形で道を切り拓き、新たな前例を築きたいと考えています。埋もれた宝物が地表に姿を現すように、時間が解決することもありますが、誰かが一緒に掘り起こしてくれれば、その道のりはずっと容易になるのです。
クラスルームからNHKワールドのニュースルームへ
JETが導いたジャーナリズムへの道
JET時代のブレットさん
2009年、多くの応募者と同じように、私も配置希望調書に東京・京都・大阪と記入しました。ネオンがきらめく夜、高速で走る電車、そして通勤ラッシュで人がひしめくホームを思い描いていました。しかし、実際に配置されたところは、山々と田んぼに囲まれた兵庫県の静かな町、丹波市でした。すぐにGoogleで検索してみましたが、情報はほとんど見つかりませんでした。
当時は、それが回り道のように感じられました。しかし、今振り返ってみると、それがその後のすべての土台になっていたと感じます。
大学ではジャーナリズムを学びましたが、ちょうど世界的な金融危機の中で卒業を迎え、特にメディア業界の就職状況は厳しく、仕事を探すのと同時に、自分の進むべき方向も模索していました。
私の勤務先は青垣中学校で、金曜日には小学校も訪問していました。「ALT(外国語指導助手)」として勤務していましたが、実際のところ、様々な役割をこなしていました。通学路での交通指導員やバレーボール部のアシスタントコーチ、そして時には「小学校のリングでダンクができる背の高い外国人」として、子どもたちに親しまれていました。
子どもの頃から、学校や家族との食事のときや、その場で集まった人たちで行う気軽なアイスホッケーのとき等、撮影をしていたのはいつも私でした。そのため、自己紹介のとき、自然と「映像で伝えよう」と思いました。

NHK金沢にて、北陸の歴史・文化・食について取材を受ける様子
犬を見て喜ぶ顔、2010年のオリンピック映像に湧く声、深夜にロングボードで滑ることへの強い好奇心——そのリアクションがすべてを物語っていました。この経験から早い段階で学んだのは、「人に話を聞いてもらいたいなら、まず自分を見せること」ということです。
生徒たちとの信頼関係は、毎日顔を出すことから始まりました。昼食は、毎日違うクラスで一緒に食べたり、昼休みには鬼ごっこをしたり、登校時には廊下に立って、教室に向かう生徒たちに手を振ったりしました。最初はどれも少しぎこちなかったですが、だからこそ意味があったのだと思います。“ちゃんとやらなきゃ”という思いを手放したとき、自然なつながりが生まれました。
朝早くから学校に行き、放課後も遅くまで残っていましたが、夜は静かで長く感じました。そこで始めたのがブログでした。日々の暮らしについての静かな記録——給食のルールに戸惑ったことや日本各地を旅した思い出、元会社役員で今は農家のコタニさんとの友情についてなどをブログに書きました。その投稿を通して、自分の声を見つけ、物語の伝え方を少しずつ磨いていきました。

丹波市で出会ったコタニさんと12年ぶりの再会の時に娘を紹介しているブレットさん
ブログは次第に読まれるようになり、バンクーバーに戻って間もなく、CBCラジオでの仕事が決まりました。パートタイムの職務でしたが、放送の世界に足を踏み入れるきっかけとなりました。最初は時事報道を担当していましたが、すぐに国際的な速報ニュースの分野に惹かれるようになりました。事実を正確に伝えるだけでなく、「なぜそれが重要なのか」を両立させることが課題でした。
ボストンマラソン爆破事件やマレーシア航空MH370便の消息不明、そしてISISによる武装蜂起の初期の報道——そうしたニュースに向き合うたびに、自分の持てるすべての直感が試されました。情報は限られ、タイムラインは次々と変わり、現実に深刻な影響を及ぼしていました。
しかし、その不安感には、どこか覚えがありました。
日本にいた頃は、ほとんど知らない子どもたちが集まる教室で、短時間で、かつ誠実に信頼関係を築く必要がありました。状況は異なっても、大切なことは同じでした。わかりやすく伝えること、好奇心を持ち続けること、そして相手の立場に立つことです。
その次に向かったのはイスタンブールでした。2015年には、トルコ初の英語ニュース専門チャンネルの立ち上げに携わりました。
イスタンブールへの移住は決して容易ではありませんでしたが、JETでの経験が教えてくれたのは、「成長は、確かなものがなくなった時に始まる」ということでしたが、この経験が、次の章への扉を開いてくれました。行き先は、10年近く前にJETの希望調書で丸をつけたあの街、東京です。
CBCのフェローシップを通じて再び日本を訪れ、NHKの国際部門「NHKワールド」のアドバイザーとして働くことになりました。
NHKワールドでは、日本人ジャーナリストが国内のニュースを海外向けに発信できるよう、英語での物語の伝え方や編集方針、読者とのつながり方について助言を行いました。
文化の架け橋になる——ただし今回は、地方の子どもたちが相手ではなく、首都で活躍するベテラン記者たちを対象にした仕事でした。
また、英語での報道経験がほとんどない地方局の記者たちに向けて、各地でワークショップを実施しました。
たとえば、地元の課題をいかにグローバルな視点で伝えるかについては、丹波市のような地域の物語が、県境を越えて多くの人々に届くにはどうすればよいかの伝え方を一緒に考えました。こうした数年間は、単なる「報道現場」での経験にとどまらず、日本で暮らし、人生を築きました。
コロナ禍の最中に結婚し、非常事態宣言下の東京で娘が生まれました。
その後、私はMBA取得のためにカナダへ戻り、マギル大学に進学しました。自分がこれまでに学んだすべてを結びつけて、何か新しいものを生み出したいと思ったからです。
その思いから立ち上げたのが「Pleasant Shimo」というアートとストーリーテリングのプロジェクトでした。

Pleasant Shimo は、世界の個性あふれる街を地元アーティストとのコラボで紹介。初回はバンクーバーと東京を特集。
東京やバンクーバーといった都市の象徴的な街並みをテーマに、地元アーティストと協力して版画作品を制作・発信しています。
これは、JETで学んだ、現場に足を運ぶこと、不確かさを恐れず飛び込むこと、そして、その時・その場所でしかできないことに挑むことという延長線上にあります。
当初、JETプログラムの参加は自分が思い描いていたものと違ったと思いましたが、今振り返れば、それこそが自分にとって必要なスタートだったのです。

- SNS:
- @PleasantShimo
山で暮らす日々
キャンプと高山の祭り「チンガイ」―チョケラマイカ
コミュニティとキャンプ体験

2021年にJETの赴任先通知を受け取ったときは、とてもわくわくしていました。自然が大好きな私にとって、動画やアニメでいつも美しく描かれていた山や川を探索するのが待ちきれませんでした。配属先は、日本アルプス北部に位置する町――高山です。幸運なことに、シンガポール出身でJET仲間の親友Xuanが、愛知県でCIRとして暮らしていました。彼女はキャンプが好きで、自分のバンをキャンピングカーに改造して旅をしています。私たちはキャンプ場の情報を共有し、何度も一緒にキャンプをしました。今回は、彼女や日本人の友人たちと過ごした3つの心温まるキャンプ体験をご紹介します。

1回目のキャンプは、愛知県の野間ビーチステーション(@noma_beach_station)でした(キャンプ料金:1人3,000円。Xuanの家から車で短時間の距離です。海辺にあるキャンプ場で、そこでは日本人の友人MinamiとJonosuke(Jo)にも会いました。夕日がとても美しかったことと、Joがキャンプ用品を完璧に揃えていたことに驚きました。私はよく忘れ物をする性格で、この日も「キャンプ用の椅子を持ってきていない」と何気なく話したところ、Joが「何脚必要?」と聞き、あっという間に車のトランクから4脚の椅子を取り出してくれました。グループキャンプの良いところは、皆が少しずつ持ち寄って助け合えるところです。スーパーで買ってきた食材をバーベキューで焼き、食事を終えるとJoが小さな斧と薪を取り出し、まるで本職のように薪を割り始めました(彼は市役所勤務です)。日が沈み、少し肌寒くなった頃には心地よい焚き火ができあがり、その火を囲んで「好きなタイプ」の話で盛り上がりました。若い日本人は「恋話」が大好きです。

2回目のキャンプは、岐阜県の板取川近くで行いました(キャンプ料金:3,000円、食費:2,000円)。今回は私の町から近く、自分のキャンプ椅子も忘れずに持参しました。ここで新しい友人、YurikaとYukiにも出会いました。YurikaもJoと同じくキャンプ経験が豊富で、素晴らしいキャンプ用品を持っていました。鉄板やコンロ、コンパクトに収納できる立派なテーブルまであり、日本のキャンプがいかに快適で贅沢になり得るかを目の当たりにしました。これらはすぐに、今後のキャンプのための購入リストに入りました。川辺でおしゃべりを楽しみ、共通の趣味であるキャンプが縁となり、すぐに打ち解けました。MinamiとJoも、この時点で、もう昔からの知り合いのように感じていました(まだ会うのは2回目でしたが)。日本でのキャンプの特典の一つは、近くに必ず温泉や銭湯があることです。このときも徒歩圏内にあり、寝る前に温かいお風呂に入ったのは最高の贅沢でした。さらに嬉しい特典は日本人とキャンプをすると、食事が間違いなく美味しいことです!

3回目のキャンプは、長野県の木曽駒冷水公園で行いました(キャンプ料金:無料)。ここは高い山で囲まれた山脈の一部で、私の家からもそう遠くありませんでした。Xuanと私はこのキャンプ場を訪れてみたいと思っていましたが、他のキャンプ仲間たちは仕事の繁忙期で参加できず、私たちの写真を羨ましそうに眺めていました。このキャンプ場は標高1,000m以上にあるため、夜は冷え込みます。そこで7月というベストシーズンに訪れました。特筆すべきは、このキャンプ場が無料であることです。そして驚くほど清潔で設備が整っていることです。必要なキャンプ用品を電子決済で購入できるセルフ販売所まであり、すべてが信頼に基づいて運営されていました。地元の人たちが、誰もが楽しめる無料のキャンプ場を提供するために整備した場所でした。食事はもちろん、Xuanが日本人のように丁寧に用意してくれ、最後はニッシンのカップヌードル(ラクサ味)で夜を締めくくりました。
JETを始める前、正直に言えば「日本は一人で過ごすのが好きな人向けの国」というイメージがあり(例:一蘭ラーメンの一人席)、ほとんどの時間を一人で過ごすだろうと思っていました。しかし、実際はまったく違いました。日本人は一緒にキャンプをするのに最高の仲間です。清潔で責任感があり、食事の計画を丁寧に立て、互いに助け合います。もしキャンプに興味があるなら、ぜひ始めてみてください。私も素晴らしい仲間たちと出会う前は、ソロキャンプから始めました。
高山の「チンガイ」
最後に、高山で体験した特別な出来事を一つご紹介します。それは、私の地域で行われる「チョケラマイカ」というパレードでのことです。きっかけは、JTE(日本人英語教員)が自分の所属するダンスグループの動画や写真を見せてくれたことでした。「とても素敵ですね」と感想を伝えただけのつもりが、翌週にはなぜかそのグループの一員になっていました。彼女たちは夏のパレードに向けてダンスの準備をしていました。最初は一度だけ参加して抜けようと思っていました。メンバーは素晴らしい女性ばかりですが、もともとパフォーミングアーツが得意ではなく、これからもそうだろうと思っていたからです。
次の練習では、派手な色のキラキラスカートが登場しました。さらにその次の練習では、虹色のウィッグまで出てきました。コスプレにも興味がない私は驚き、内心やめたくて仕方がありませんでしたが、「せっかく日本にいるのだから」と気持ちを切り替え、彼女たちの熱意に合わせてみることにしました。
そして当日、私は歴史的建造物が立ち並ぶ高山の古い町並みの真ん中で、この素敵な女性たちと一緒に踊りました。もちろん、キラキラスカートと虹色ウィッグ姿でした。生徒たちに見られたらどうしようと思っていましたが、実際には、生徒たちもこのイベントに参加していました。パレードは全部で45分ほど続き、さまざまなグループが町を練り歩きました。衣装や演出の完成度で順位がつき、私たちのグループは4位に入賞しました。賞金と、古い町並みで使える5,000円分の金券ももらい、その日はそれでお祝いをしました。私は金券でふわふわのパンケーキを購入しました。その日は、毎週一緒に踊ったり、たこ焼きパーティーを開いたりする友人という、賞金以上のものも手に入れた一日でした。

