2020年JET Streams冬号
JETAA(元JET参加者の会)
JETの向こうに
トゥラシェフスキ・スヴェン氏、元札幌市CIR、2006年~2010年
1987年に設立したJETプログラムの30周年記念を3年前に行いました。しかし、ドイツがJETプログラムに参加したのは1989年であったため、私たちは今年30周年を記念しました。
私たちの支部では、30周年記念は多くの会員を集めることができる機会であると考えました。11月1日、八木毅大使より招待いただいた70人以上の会員がベルリンの大使公邸で30周年記念レセプションに参加しました。これだけの会員が参加したことは、他の支部と比較し、JETAAドイツ支部は‘小規模な支部’であり、30年間でわずか300名の会員しかいない(その中でもメールで連絡がとれるのは250名に至る)ことを踏まえると、大成功でした。
一般財団法人 自治体国際化協会(クレア)とクレアのロンドン事務所の惜しみない協力により、ドイツ、オーストリア、スイス等、ヨーロッパからのメンバーがレセプションに参加できるよう寄付をいただきました。その週末に50名以上のメンバーがベルリンへ向かい、その他はベルリン内から来ました。
レセプションの開始にあたり、八木大使にドイツと日本語での挨拶をいただきました。続いて、30周年を記念するため、はるばる日本から来られたクレアの理事長である岡本保氏からもスピーチも頂きました。その後に恐れ多くも私から、ドイツの国代表とJETAAドイツ支部の代表として、ドイツ支部の歴史について話しました。2013年に、私を含め、JET経験者3名がベルリンにいる他のJET経験者に声をかけよう考えた経緯を話しました。翌年、(私は、ドイツ人なりの言い方で)「非公式ベルリン・ドイツのJET会議」という名の下で初めて集うことができました。その後、関係者の中で2015年にドイツ支部を再編成しようという声があったおかげで、2016年に細則や委員会が設立し、JETAA-Iにより公式の団体に認定されました。
私は100名参加者の前でドイツ語と日本語でスピーチするのをお願いされ、数日間とても緊張していました。しかし、この名誉あるスピーチが終わり次第、レセプションはカジュアルな雰囲気へと移りました。ドイツと日本の有意義な交流において、昔からの友達と再会できるだけではなく、まだ会ったことがない別の年次に参加していたJET経験者にも会える素晴らしい機会でした。同じ任用団体で務めた前任者と後任者にも会え、経験を共有する機会にもなり、同じ県で務めた方々のグループ写真もたくさん撮られました。
夜には、三味線トリオの「蜜音-Mitsune」による演奏もいただきました。このグループは、2017年に設立し、メンバーはドイツ、日本とオーストラリア出身の女性で構成されています。この3人の活動はJETプログラムの目的である異文化交流を代表する事例です。レセプションでの様々な食事(特に抹茶クレームブリュレは私が一番好きでしたが)もおいしく、日本の様々な地域からの地酒の用意もありました。
私たちのスライドショーの上映も別の部屋でありました。残念ながら来られなかったメンバーがこの特別な機会に関わることができるように、すべてのメンバーにJETプログラムに参加していた頃の写真とその説明を加えたスライドを作ってもらいました。
また、この機会にフランス、アイルランド、イギリスの様々なJETAA支部からの代表者も招待しました。1989年は、ドイツが初めてJETプログラムに参加した年であるだけではなく、ベルリンの壁が崩壊した年でありました。壁を壊し、橋を架け、人々の交流が始まったという意味でも30周年を記念することができました。そのため、レセプションの翌日にヨーロッパから来たレセプションの参加者をベルリンの現在と過去を知るツアーに招待しました。
レセプションのスピーチを準備していた頃、自問自答していました。「そもそもなぜ他のJET参加者と会う必要があると考えているのか?」この質問には、明快な答えがあります。それはJETプログラムでの「繋がり」です。JETプログラムでの経験では、ドイツと日本を結ぶだけではなく、JET参加者同士の繋がりもつくっています。各JET参加者の経験は、役割も様々であり、また日本でどのような人に出会い交流してきたかも様々です。しかし、結局は日本でJET参加者として働いたという共通の経験がみんなを繋いでています。
現在、25名のドイツからの方(24名の国際交流員、1名のALT)がJETに参加しています。ドイツもJETプログラムの参加国の一つであることは幸いであり、誇りを持っております。また、JETAAドイツ支部の同窓生にいずれなる次世代のJET参加者を歓迎することを楽しみにしております。次世代のJET参加者が私たちのネットワークを維持し、広げてくれることを願うとともに、近いうちにベルリンでまた会える機会があることを、またその際はより大人数で会えることを期待しています。
プロフィール
スヴェン氏は2006年から2010年にかけて札幌市にて、CIRとして活動しました。ニュルンベルク(南ドイツ)出身で現在はベルリンに居住し、交流プログラム(日独ヤングリーダーズフォーラム)とベルリン日独センターでの会議のプロジェクトマネージャーとして活動しています。
ナンティカ(ローズ)・タナスガーン氏、元島根県 ALT 、1990年~1993年、2003年~2006年
私は島根県で3年勤務しロサンゼルスへ帰国した1993年から元JET参加者の会の会員として活動していました。JETAA南カリフォルニア支部(JETAASC)の活動を通じて、日本とつながる感覚を持つことができ、他のJET経験者と会えることを楽しみました。幸運な事にJETAASCの創始者のひとりである今は亡きナンシー・キクチさんと知り会えました。彼女の無私の努力は、私の今のJETAA International 日本国代表と西日本支部会計担当という役割に大きく影響を与えました。
世界中のJETAAの支部と比較すると、日本の支部はまだ成長段階のようです。日本に残るJET経験者が増えていることと、現在の参加者が日本に滞在する機会を求めている傾向から、今は日本におけるJETAAの未来の指針を考える重要な時期だと思います。
日本国外のJETAA支部は、たびたび「日本語だけでの夕食会」や再会の集いを持ち、JET参加者だった時の思い出を語るイベントを開きます。日本に滞在しているJET経験者は、そのようなつながりをあえて持つ必要がないため、会員にとって魅力的な活動を企画するのが大変です。新たな会員を探し、勧誘することもまた課題であります。
これらの課題に対処する方法の一つは、日本国内支部がCLAIRおよびAJETとのコミュニケーションを継続し、イベントのサポートや協力を得ることです。たとえば、西日本支部では、全てのイベントが現役のJET参加者に公開され、AJETブロックグループのフェイスブックでも宣伝しています。これは参加者を募集し支部や支部の活動の認知度を上げることの両方に効果的な手段です。実際に、現在のJETAA西日本支部の役員も、JET参加者だった時にイベントに参加していました。AJETと組むことで、支部の活動への参加と後継者の育成ができ、支部の持続的な活動を可能にすることができます。
また、日本国内支部の役員たちは、CLAIRが主催するキャリアフェアやJET終了後の生活に関する講座に協力し、これを機に、現役JET参加者に日本のJETAA支部について宣伝し、会員を募っています。
日本国内のJET経験者への珍しい機会
日本への観光ブームにより、多文化的で複数の言語を話せる人材を求める声が、特に地方から増えています。神戸のPRアンバサダー事業のようにいくつかの地方自治体ではボランティアを求め始めています。JETのコミュニティはこれらの企画のボランティアになり得る重要な存在です。多くのJET参加者と同窓生は自分のいる地域社会にとどまりたいと願っていますが、言語を教える以外の職につくことは簡単ではありません。時に地方公務員の求人の機会はありますが、採用担当者は志望者がどこにいるのか知らないのです。CLAIR並びに、東京及び西日本のJETAAは、JET経験者と雇用者の仲介者として求人情報を共有するなどの役割を担ってきました。
日本にいるJET経験者はまた、地域社会に貢献したJET経験者を偲び、称えるために力を発揮しています。テイラー・アンダーソンは2011年3月11日の東日本大震災により石巻を襲った津波によって命を落としました。しかし、彼女の魂はテイラー・アンダーソン記念基金(TAMF)を通じて生きています。JETAA西日本支部は基金のための上映会を2回開きました。それが「夢を生きる〜テイラー・アンダーソン物語」です。支部として、TAMFの周知への協力を継続的に行っています。例えば、「いしのまきもの」グリーティングカードの活動があります。「いしのまきもの」グリーティングカードは、販売することで、コミュニティの活動の運営に協力する一方で、制作している石巻の女性たちにはお互いに心の支えとなっている側面があります。
JET経験者のサラ・オーフレットは鳴門の砂浜の清掃活動を始めた熱心な自然保護主義者でした。この三月、彼女の世界中の友人は彼女が環境会議に向かう飛行機で事故の犠牲になったことを知り悲しみにくれました。西日本支部の希望はサラの同僚の一人と協力して夏の終わりの鳴門の砂浜を清掃することです。
JETAAとの相乗的なネットワーク
JET参加者の多くは外交官になりその一部は日本に配属されました。これらのJET経験者との関係を積極的に構築することにより、各支部は彼らと同僚をイベントに招待することができます。JET参加者が外交関係のキャリアを知る一方で、大使館や領事館は有望な候補者に会うことができる機会になるのです。JET経験者のシンディー・リネバーグは在大阪オーストラリア総領事館におけるオーストラリア政府機関である豪州貿易促進庁に勤めています。シンディーはJETAAのイベントにおいて、次のようにJETAAのイベントに参加することを奨励しています。「同窓会は、様々な出身国と学歴を持つJET経験者が世代を超えてJETプログラムに参加した経験を共有するための理想的な場です。私は、JETを通じて身に着けたスキルをどのように生かしていくかを新たに同窓生から学ぶことができる貴重な機会だと考えています。最近のJET経験者もJET後のキャリアを歩んだ人々からキャリアのインスピレーション、ヒント、重要なポイントを学ぶことができると確信しています。JETの経験を今後に生かしたいと考えている方にはイベントの参加を強くお勧めします。」
駐大阪・神戸米国総領事館の広報担当官であるブルック・スペルマンはJETAAイベントへの参加についての考えを、以下の通り述べました。「関西のコミュニティとの関わり、地域のイベントへの参加と開催、組織と個人を結び、JET経験者の経験と専門知識の活用により日本と世界の人と人とのつながりを強化するという重要な役割の継続に対する公約に感銘をうけました。それは確かに西日本における日米関係に恩恵をもたらしました。私は彼らの努力に感謝します。」
結論
私はJETプログラムとJET同窓会の双方において多くの変化を見てきました。どちらもJET参加者の参加国と日本の関係を強化するという点だけでなく日本にとって重要なツールに成長しました。JET参加者と経験者は特に人材不足が問題となっている国内外で事業を展開する企業にとって貴重なグローバル人材となりました。
日本の支部はまだ成長と発展の段階にありますが、JET経験者には多くの貴重な機会があります。JETAA日本支部、CLAIR、および各省庁間においてコミュニケーションと協力を継続していくことで、経済的、社会的ニーズに対する相乗的な解決策を見出すことが十分できると考えています。
日本でのJETAAの詳細または参加するにはローズ・タスナガーン(jetaawj@gmail.com)にメールしてください。
プロフィール
ナンティカ(ローズ)タスナガーン氏は、ロサンゼルス出身。コーネル大学卒業後1990年から1993年まで島根県五津市でJETに参加し、2003年から2006年までALTとして島根県浜田市でJETに再度参加しました。2008年に神戸ポートピアホテルに入社して以来、キャロライン・ケネディ大使、タイのシリントーン皇太子妃、ナレンドラモディ首相のホストの手伝いに従事しました。
ポール・ハデン氏、 元大阪府ALT、 2011~2014
15年前、二つの島からなる国、トリニダード・トバゴ出身の最初のJET参加者の一団が、日本でのALTとしての新たな生活を始めるため、カリブの太陽が降り注ぐ故郷を飛び立ちました。たった4人のトリニダード・トバゴ人が心を躍らせてJETプログラムという冒険に漕ぎ出してから、165人に迫る参加者が東へと旅立ち、今では自分たちをJETプログラム・ファミリーの一員であると自負しています。この数字は、ほかの大きな参加国からの数千人の参加者と比べれば、それほど印象的ではないかもしれませんが、千葉県ほどの大きさしかないトリニダード・トバゴのような国出身の私たちにとっては、実に誇るべきことです。
今般、トリニダードの日本大使公邸で祝賀イベントが開催され、トリニダード・トバゴのJETプログラム参加15周年の節目を祝いました。多くのJET経験者と幾人かの特別ゲストが、日本の食べ物と飲み物や、東京で開催された祭り「スーパーよさこい」に、この間まで参加していた地元のスチールパン奏者のグループによるパフォーマンスでもてなされました。スチールパン奏者たちの演奏は、JETの団結力を祝う祝宴において特に心を打つものでした。それはスチールパン――ここポートオブスペインで生まれた楽器――が、日本において多くの支持を集め、両国間の最大の文化的橋渡しの役目を果たしているからです。祝宴は帰国したJET参加者からのスピーチと、現在日本にいる一部のALTからのビデオメッセージで締めくくられ、JET経験者がJETプログラムでの忘れられない思い出を共有するための素晴らしい機会となりました。
この夜のハイライトの1つは、JETAAトリニダード・トバゴ支部(JETAATT)の会長ローレンス・イニスさんに、大使からの特別表彰が贈呈されたことです。それは過去数年にわたって、ここトリニダード・トバゴでJETプログラムと日本文化の両方の広報に携わってきた当支部の功績をたたえるものでした。JETAATTは、2013年に帰国したJET参加者の一部が、他の帰国者のために帰国夕食会を開催することをきっかけとして結成し、その後、年間を通じてJETおよび日本関連のさまざまなイベントを開催する活発なグループに発展しました。
JETAATTはほかにも、新規JET参加者の出発前オリエンテーションの実施、JETプログラムに興味のある方向けの公開パネルディスカッションの開催、楽しさいっぱいの日本文化イベントの開催などの目覚ましい実績を挙げています。最も人気のあったイベントのひとつは、折り紙のレッスン、書道のデモンストレーション、着物写真ブースなどがある「Subarashii Saturday」でした。イベントに参加した人の多くはJETプログラムを知らなかったため、JETAATTにとっては好奇心旺盛なゲストと交流し、JETについて知ってもらう素晴らしい機会となりました。
JETAATTが行った最も忘れられないイベントの1つは、新規JET参加者たちのために行われた出発前の花見ピクニックです。ここトリニダード・トバゴには繊細な桜の木はありませんが、桜のように短期間だけ花をつける、雄大で目を引くイペの木があります。優雅で繊細な桜の花に対し、イペの花は賑やかでドラマチックです。熱帯の暑さの中、鮮やかなイエローとピンクの花が、島のこげ茶色の丘のいたるところに豪華に咲き誇ります。トリニダード・トバゴに冬はありませんが、イペは乾季のほこりっぽく息苦しい暑さの終わりを告げる花で、変化の前触れでもあります。木の下でピクニックをする風習はないのですが、2つの世界を1つにするという私たちの精神のもと、当会は島の一流大学である西インド諸島大学の、キャンパス全体に点在するイペの花の下で花見イベントを催行することにしました。それは私たちにとって大きな成功でした。JETAATT、新しいJET参加者、および大使館の日本人スタッフとトリニダード・トバゴの在住日本人がイベントに集ったとき、私たちが愛する2つの世界、祖国と第二の故郷が、一つになってきていることを感じました。花見イベントは、JETプログラムと、そして、新たに設立されたJETAATTの両方が培おうとしている「協働と文化理解の精神」の感動的なシンボルでした。私たちは、このプログラムがますます発展していくことを大いに期待し、世界中に存在するほかのJETAAの支部に名を連ねることができたことを嬉しく思います。
プロフィール
ポール・ハデン氏は、カリブ海の島国トリニダード・トバゴで生まれ育ちました。 2011年から2014年までは大阪市で、その後2018年から2019年までは大分市でJETを務めました。彼は英語とフランス語の教師としてだけでなく、フリーランスのライターとしても働いています。彼はトリニダードの主要新聞の1つに週刊コラムを掲載しており、そこで日本の食文化について頻繁に執筆しています。
モニカ・ユキ氏、元埼玉県ALT、2002年~2004年
2019年のJETAA全米総会(NatCon)は大成功でした!私は幸運にも14年間 JETAAで活動を続けることができ、私は今回で11回目の参加です。たくさんの素晴らしいJET経験者との協働ができるので、私はいつもこの機会を大切にしています。2008年にシカゴで開催されたNatConが私にとっての初参加だったので、今回のシカゴでのNatConは、私の国代表として最後のNatConとしてふさわしいと思います。
2019年9月、全米19支部から50人以上のリーダーがシカゴ市に集まって、JETAAの成功を祝うとともに、JETAAの将来についてのブレインストーミングを行いました。今年のテーマは会員、リーダーたちとアウトリーチを更なる改善することを通じて支部レベルでのJETAAの活動拡大についてでした。どの支部も、多くの時間とエネルギーをJETプログラムのPR、イベントの開催、会員数の拡大、そしてコミュニティ間の連携強化に割いている、専門的で活動的な素晴らしい幹部たちに率いられています。米国内の各支部の規模は40人から2000人以上と幅広いため、この会議は私たちにとって、メンバーが一堂に会し、優良事例を共有し、将来のJETAAの成長と成功に向けた提案を行うための大切な機会です。
NatConの最初の行事は、木曜日の夕方に行われた、USJETAA主催の歓迎会でした。このカジュアルな会が支部幹部たちの初顔合わせになりました。
翌朝の金曜日には、在シカゴ日本総領事館の田中賢治領事、JETAAシカゴのエラ・マッカン会長、クレアニューヨーク事務所の安藤高広上席調査役、在米日本大使館の大江耕太郎参事官、そしてUSJETAAのBahia Simons-Lane専務理事による歓迎挨拶が行われ、NatConが正式に開会しました。2人のゲストスピーカーから日米関係の強化のための草の根運動の重要性についてのプレゼンがあり、USJETAAの会長より支部と会員に提供しているサポートについて紹介がありました。
今回の会議は、11の異なる支部の幹部による有益なセッションでいっぱいでした。まずは JETAAニューヨーク支部のAndy Shartzerと私が「五か年計画:受け身ではなく、能動的に」という演目で、将来のJETAA活動の俯瞰図と目標についてプレゼンテーションをしました。このトピックを踏まえ、JETAAワシントン支部のRachel ReedとJETAAミネアポリス支部のKatherine Meyerによるプレゼン「強いJETリーダーの育成と確保」が行われました。私たちは近年、より広域的な活動や、サブチャプター(下部組織)における活動推進と会員数拡大について焦点を当てています。これについて、JETAAシアトル支部のSamantha Corpusから「リモートアウトリーチと交流」について講演しました。最後に、JETAAデンバー支部のTeri Galvezが「支部の可視性強化とブランディング」について話し、各支部がそれぞれの個性を反映したマスコットをデザインするという、彼女の創造的なプロジェクトも紹介されました。
金曜日の夕方には、在シカゴ日本領事館において外務省と総領事による、任期を終えて帰国したJET参加者のための盛大なレセプションが行われました。帰国者歓迎レセプションは、新規帰国者が全国のJET経験者と出会い、体験を共有し、逆カルチャーショックに向き合う素晴らしい機会となっています。
土曜日の日程はクレアニューヨーク事務所の菅原明紀所長補佐、藤原智子所長補佐、Matthew Gillam上級調査員が助成金のガイドラインや2020年オリンピックの影響での変更などについての説明から始まりました。続く三つのプレゼンテーションは、場所や規模に関わらずすべての支部にとって有益なトピックでした。JETAAハワイ支部のKelly BolenとJennifer Kuangは、「一歩ずつ確実に進める会員数拡大」の演目で、ハワイ支部での成功事例を紹介しました。JETAAが広がれば広がるほど、それぞれの家族も増えていきます。JETAAカンザスシティー支部のMaureen Brase-Houchinのプレゼンは「家族もみんなで参加できるイベントづくり」についてでした。よい時間・場所の選び方やイベントのアイデアについてアドバイスをもらいました。次は、JETAAロサンゼルス支部のMelissa Cruzからは、10年以上前にJETプログラムに参加していた「先輩メンバー」たちの活動拡大についての話がありました。その後、「サブチャプターの拡大」「幹部体制の強化」「先輩メンバーと家族が参加しやすいイベント企画」の3つのトピックについてのグループセッションに、各参加者は自由に参加しました。
最近になって頻繁に出てくるトピックは、501(c)3NPO(訳注:米国連邦税法501条項に規定される連邦所得税が免除される非営利活動法人)団体としての認定です。USJETAAのBahia Simons-Lane常務理事と私がNPO認定の利点と欠点について話し、その後のグループセッションでは、各支部の代表者がそれぞれの支部の課題、501(c)3団体になったときの利益や、認定に向けた手続きについて相談しました。
土曜日の夕方は、シカゴ支部のみんながお気に入りの「Izakaya Mita」にて、今回の日程で最後の宴会になる、クレアニューヨーク事務所主催の夕食会がありました。クレアの職員を交えて、参加者同士が支部の情勢についての情報交換を楽しみました。
NatConの伝統として、最終日の日曜日は朝一番のクレアニューヨーク事務所のスタッフの指導によるラジオ体操と、お土産交換です。今年、参加者は自分の地域らしい靴下をそれぞれ持ってきました。将来、お土産の靴下を履いた時、NatConのことを思い出して、話題が生まれるという仕掛けです。
最後のプレゼンテーションは、JETAA InternationalのXander Petersonが世界中の支部の情勢について報告した後、JETAAカナダ 国代表のAndrew Masseyがカナダの7つの支部の素晴らしい活動を紹介してくれました。
私にとってNatConの見どころは、各支部の地域イベントについての短いプレゼンテーションです。参加者は1人ずつ地域の看板イベントを紹介してから他のイベントの説明や運営のコツをシェアします。多くの支部の幹部たちがこのプレゼンで学んだことを取り入れ、自分たちの地域でも実践しています。
NatConはクレア、外務省とUSJETAAの、JETプログラムとJETAAを繁栄さえようとする、献身的で惜しみない支援に支えられています。同じ国代表であるJETAAデトロイト支部のFaye ValtadorosとJETAAカンザスシティー支部のDustin Henrich、そしてJETAAシカゴ支部のJET経験者たちの努力に感謝しています。彼らの何十時間分もの努力のおかげで、より素晴らしいNatConになりました。
各JETAA支部のリーダーたちが、それぞれの支部の強化と拡大のため、取り組みをシェアし、ブレインストーミングを行い、将来のプランを創造し、自分たちの支部に持ち帰ることができたので、今年のNatConも大成功でした。すべての支部が新しい段階に進むのを楽しみにしています!
NatConの情報、話題、スケジュール、プレゼンテーションなどについては、こちらのJETAA-USAウェブサイトにアップされています。
プロフィール
モニカ・ユキ氏は2002年から2004年の間にALTとして埼玉県で働いていました。カリフォルニア州マリブ市出身で、コロラド大学を経営管理学理学士として卒業しました。JETの任期終了後ニューヨーク市へ引っ越し、2005年以降、JETAAニューヨーク支部 (構成員2000人ほどのNPO)の会長を数年間務める等、 JETAA USAの幹部として、14年間意欲的に活動を継続してきました。現在彼女は、JETAAニューヨーク支部の理事会役員かつJETAA USAの国代表の一員であるとともに、米国全土のJET経験者を支援するNPOであるUSJETAA の理事会役員を兼任しています。JETAA以外にも、消費者ニーズ調査や分析を行うマルチメディア会社のリサーチディレクターとしても活動しています。休日には、トライアスロンのトレーニング、地元JET経験者とお出かけ、アウトドア活動など、ニューヨークでの生活を満喫しています。
ジェニファー・ミッチェルヒル氏、元富山県ALT、1999年~2002年
本を出版するにはどうしたらいいでしょう? JET経験者のジェニファー・ミッチェルヒル博士が、ALTとして3年間日本に滞在する中で、いかにして「日本の城」という本2冊を手掛けるに至ったのかについて語ってくださいました。
私たちが結婚した年、私のパートナーのデヴィッドと私は、1年間仕事や学業を休むためにJETプログラムに申し込みました。何の期待もなく本を出版するつもりは全くなくて日本に行きました。しかし、結局は3年間日本に滞在することになり、学校生活や地域文化にどっぷり浸かって――まったく予想外のことでしたが――日本の城に恋してしまったのです。
配属された町のJET参加者より少し年上で夫婦だった私たちは、余暇の時間に、かつてオーストラリアにいた頃に取り組んでいて、一時中断していた仕事――私にとっては1年間休んでいた建築の研究、デヴィッドにとってはマーケティング――に取り組むようになりました。金沢を訪れたある日、草に埋もれた、昔に重要だったはずの入口を偶然見つけました。巨大な石は見事に重なり合って門の両側の壁を形成していました。興味をそそられ、私たちは内部に入りました。それは金沢城の跡地で、17世紀末頃に建てられた200以上の城の一つであり、西暦1600年から1868年までの268年間の軍事政権時代、徳川将軍家に次ぐ経済力を誇った、前田家という大名家の本拠地でした。1868年に天皇家の勢力を盛り返すと、壮麗な金沢城の土地や建物は帝国陸軍に引き継がれました。思い起こすのがためらわれる日本の封建時代の象徴であった金沢城は使われなくなり、1881年に不注意のために主要箇所が焼失してしまいました(酔っぱらった兵士の過失・不注意が原因と言われています)。1949年から1978年の間、この場所は金沢大学のキャンパスとして使用されていました。そして1999年に、石川県が当時使われていた伝統的な材料・工法技術を用い、1881年に焼失した城の主要箇所の再建が行われることになりました。この再建事業は、将来の世代へ伝統技術を承継するため、伝統的な設計・技術を用いているという点で、当時最先端の保全推進事業といえます。木、泥、漆喰などの材料は、蒸し暑い夏から凍えるほど寒い冬に至るまでの、日本の幅広く多様な気候にコンクリートよりも適していると証明されており、伝統的な木組みは地震により強いのです。
金沢城の研究は、私にとって自身の建築研究に寄与する究極の調査プロジェクトに思えました。
市場のギャップ
金沢城再建を背景として、私は日本の城の調査を開始しました。英語で情報を探すことは容易ではありません。1999年はインターネットがやっと普及してきたころで、調査は文献に基づいて行われなければならない上、英語の参考文献はほとんどありませんでした。私の入手できた文献は時代遅れのものや事実と異なるものばかりでした。建築の詳細や記録の専門的性質のために、日本語で記述された情報の解読を手伝える日本の翻訳者は見つけることは困難でした。日本の城について英語で書かれた、最新の情報、事実に基づいた正確な文献のニーズがあることは明らかでした。
したがって、私の金沢城のプロジェクトが終了した1年後、デヴィッドと私は日本の城をについて本を出版するために、日本の城の写真撮影及び調査を始めました。これはまさしくマーケティングの実践であり、私たちは市場のニーズを見出し、それを満たす決断をしたのです。
課題への熱意
私たちは日本海側に位置する私たちの町の付近や、公共交通機関で行くことができる城のマップ作りを始めました。その時、私たちは当時のまま現存していて、かつ重要な意義を持つものを選び取ってマップを作成しました。天守(城の象徴となる主要的建造物)が現存している城は僅か12城(じょう)しかありません。私はそれらの城すべてを訪問することにしました。天守は現存しないものの、重要な意味を持つ外部構造、石垣、堀などをもつ城は多く存在し、これもリストに掲載しました。私たちのリストに載った城の数は総計で約40城に及びます。このほかに、日本中で様々な経年劣化具合の城を見つけるたび、リストに加えていきました。そうして、私たちは日本中を旅することになりました。私たちは公休、週末などの機会を利用して「城巡り」に赴き、城に関する情報収集や写真を撮る旅を続けました。
20年前にはデジタルフォトグラフィーは存在せず、私たちはOHPを使用していました。つまり、写真を撮影するたびに、どんな写真を撮影するかあらかじめ計画を立て、検討・準備、そしてブラケット撮影(一度の撮影で3つの異なる露出の写真を連写する。段階露出。)などの過程を経なければならなかったのです。撮影するごとに費用がかかりました。デヴィッドと私は二人で協力して取り組みました。デヴィッドは写真に関する眼識と専門性を有しており、私はどのような構図を撮りたいかを指示しました。フィルムを現像して、写真館で働く友人から借りたプロジェクターを使用してスライドをキッチンの壁に投影して、やっと写真に何が移っているのかがわかりました。心躍る瞬間です。どうしても撮りたかったワンショットが、期待通りの出来栄えになっているときもあれば、そうでもない時もあります。あるいは、まったく別の写真が私たちの期待し得る以上のものになっていることもあります。デヴィッドが撮った写真は、いつも私が思っていたのとは全く違う表情の城を見せてくれました。
私たちにとって最もエキサイティングな発見は、それぞれの城の違い、美しさ、ディテール、大きさ、そして17世紀に手作業によってこれらの城を作り上げた驚くべき技巧です。外国人である私たちはそのとりこになり、細心の注意をもって、ほかの人々が見落としてしまうような城の細部の隅々まで写真に収めました。門にあった乳房の形をした釘隠し、大名家の家紋が刻まれた軒丸瓦、城の窓に取り付けられた、完璧に接合された木戸。最も心に残っている瞬間は、私の学校の歴史の先生が、日本の城の美しさを実感させてくれたと私に感謝してくれたときです。
努力
撮影や調査のために旅をしていた時期には、私たちはまだアイデアを出版社に持ち込んではいませんでした。私たちは2つの出版社に接触しました。嬉しいことに、市場のギャップに関しての私たちの見込みは正しいものでした――両方の出版社は興味を示したのです。私たちは一方の出版社を選び、仕事に取り掛かりました。
本を書くというというのは容易な作業ではありません。私は、この本を私が研究を始めた頃に探し求めていたような文献にしたかったのです。私は多くの方々に助けを求めなくてはならず、余暇に情報収集を手伝ってもらう必要がありました。私はまたデヴィッドとチームを組みました ― 彼は私が書いた原稿を校閲・編集し、私は本に載せる写真を選びました。この本はチームの大変な努力の結晶です。私たちはお互いに、よりよい写真を選び、よりよい文章を書けるようにお互いを励ましあいました。完成した本の詳細は以下の通りです。”Castles of the Samurai : Power and beauty” Kodansha International 2003-2013(ジェニファー・ミッチェルヒル、デヴィッド・グリーン)。そして、出版から10年以上が経過し、私たちは日本の城主と、城を造った人たちに関する2冊目の著書、”Samurai Castles”, Tuttle Publishing, 2018(ジェニファー・ミッチェルヒル、デヴィッド・グリーン、www.kodanshausa.com/books/9781568365121/とhttps://www.tuttlepublishing.com/japan/samurai-castles)を出版しました。
日本で過ごした3年間は色んな意味で素晴らしいものでした。日本の城について記述した2冊の著書を振り返って見返すと、この有意義な、人生の中で非常に大切で実りある時が思い出されます。もし、デヴィッドが撮った日本の城の写真をご覧になりたいのであれば、以下のサイトを訪れてください。
https://edition.cnn.com/travel/gallery/beautiful-samurai-castles-photos/index.html)
日本の城に関する情報:https://edition.cnn.com/travel/article/japan-samurai-castles/index.html
プロフィール
ジェニファー・ミッチェルヒル博士は、オーストラリアのメルボルン大学で建築史を教えています。デヴィッド・ミッチェルヒル・グリーン氏は、マーケティングの仕事をしています。彼は第2次世界大戦史に関する本を多く執筆しています。連絡先:jjmitchelhill@gmail.com