2016年夏号
今年はJETプログラム開始から30周年となる節目の年です。これまで、JETプログラムには世界60か国以上から6万人を超える方々がプログラムに参加され、本プログラムの発展はもとより、日本の外国語教育の充実と地域の国際交流の推進に大きく寄与されています。プログラムの30周年を迎えるにあたり、「JETプログラム動画コンテスト」及び「JETありがとうキャンペーン」を実施しており、これらの事業によりJETプログラムに関わる皆様の友好の絆が強化されることを期待しております。
①JETプログラム動画コンテスト(春夏編)
昨年度はJETプログラム動画コンテスト(秋冬編)を実施し、28任用団体にわたる多くの応募をいただきました。現役と元JET参加者から投稿された50件の動画をコンテストの特設サイトにてご覧いただけます。
本年度は秋冬に続き、8月31日まで春夏編を開催しております。JET参加者の目線から地域の魅力を広く閲覧する機会を設けることにより、JETプログラムを活用した地域の活性化の促進及びJETプログラムの周知を願っております。そして優秀者には、2016年秋開催の30周年記念式典にて表彰を行い、賞状、メダル、副賞を授与します。国内旅行券10万円相当の最優秀賞を始め、様々な賞が当たるチャンスです!
募集期間: 平成28年4月7日(木)~ 平成28年 8月31日(水)
投票期間: 平成28年 6月1日(水)~ 平成28年 8月31日(水)
応募方法やコンテストの詳細については以下のサイトをご覧ください。
https://jetprogramme.org/en/videocontest/
「JETありがとうキャンペーン」とは世界中のJETプログラム関係者が誰でも記念事業に参加できるよう、JETプログラムを通じて出会った人々やJETプログラムそのものへの感謝のメッセージを発信、共有できる機会です。
JETプログラムを通して、貴重な出会い、面白い経験、新しい発見などがありましたか?JETプログラムの30周年を記念し、テキスト、音声、動画のメッセージを募集しています。JETプログラムに関わった学校や地域の方々に感謝のメッセージを届けましょう。JET参加者でも地域の方でもどなたでも参加できます。抽選で50名の応募者に限定のJETプログラム30周年記念グッズを差し上げます!
募集期間: 平成28年5月18日(水)~ 8月31日(水)
応募方法やメッセージなどについては、キャンペーンの専用ページでご確認ください。
https://jetprogramme.org/ja/arigatojet/
皆様からのご応募をお待ちしております!
レミー・ミヨ 元熊本県山都町ALT 2010-2015
2010年6月1日、JETの採用面接から4ヶ月が経った頃、私がALTとして熊本県山都町に配置されるとの連絡が入りました。山都町?熊本県?私は理解しようと自分の中でその単語を繰り返しました。Google Earthで数回クリックした後現れたのは、ほぼ緑の画像でした。まさに小さな緑のピクセルで埋め尽くされた海でした。実際の山都町は11年前に三つの町村が合併してできた面積545平方キロメートルを超える町です(パリの4倍の大きさ)。
一目で恋に落ちることはなかったものの、熊本県と山都町の存在は予想を超え、私の中で次第に大きくなっていきました。数ヶ月が経つと、私は住民の顔や、私の生徒との関係性、そして時には彼らの名前さえ覚えました。チキン南蛮や川魚定食がパンやラタトゥイユに代わって普段の食事となりました。生徒たちは、私にとって子供のような存在になりました。熊本空港に到着した子供のいない独身男性が、300人の子供の父親になった気分でした。私は、週4日は市内のスイミングプールに通い、熊本県内の水泳大会で上益城郡の代表にまでなりました。裸まつりや村で行った英会話教室など、私は、数ヶ月前までは存在さえしらなかった土地に深い繋がりを感じました。私の契約は2013年7月に終わりを迎え、素晴らしい3年間の後、ついにフランスに戻ることとなりました。
そして時は2016年4月14日。私は、ピースボートのボランティアの教師として世界中を旅した後、休養のために神戸に遊びにきていました。起きた直後に、地震のニュースを聞いて衝撃を受けました。私は、テレビとFacebookを相互に確認することに時間を費やし、友人の無事を確認しようとしました。傍目には、人々はショックを受けてはいるものの、被害は抑えられ、犠牲者の数も少ないように思えました。
一日が過ぎた日曜日の朝、より大きな地震が熊本を直撃したというニュースで目が覚めました。被害は益城町に集中していました。熊本県?益城町?私は、その事実がなかったことになるようにとその単語を繰り返しました。瓦礫や崩壊した建物がテレビに映し出され、私にゆかりのある場所、建物、道であることに気づきました。崩壊した町並みを見ると、心がとても痛くなりました。私はさらに情報を求め続けましたが、私が真に必要とする情報はテレビでは報道されませんでした。私がなんとか集めた情報で、友人全員の無事は確認できました。しかし、地球上の全ての人や物事は6ステップ以内でつながっているという仮説(六次の隔たり)もあるように、熊本では、さらに人と人とのつながりが密接です。つまり、私の直接の友人は無事でも、その友人の友人となると、行方不明になるか、傷を負うか、避難を余儀なくされていました。公園や車内での寝起きをする熊本県民もいました。
この状況下で、私は第二の故郷から数百キロ離れた場所で、心地よいソファに座っています。私の第二の故郷で人々が苦しんでいるというのに。助けたい。助けなければ。しかしどうすればいいのだろうか?お金を寄付することはたやすいです。経済的に支援する手もある一方、現地に赴き、手を貸すというのも大事でしょう。東京のピースボートのボランティアセンターで働いている友人に連絡したところ、はじめの数週間は現地の状況把握に専念され、ボランティアではなく専門家が派遣されるということがわかりました。「It’s Not Just Mud」という団体はボランティアを募集していましたが、募集の対象は自分自身で装備を用意でき、完全に自立して行動できる人です。私は何ももっていませんでした。装備を揃えるためのお金はありましたが、私は何も買おうとしませんでした。正直に言えば、私は恐れていたのです。地震後、テレビ番組は10分ごとに余震速報で中断されている状況で、私は徐々に恐怖心を覚えるようになっていきました。2週間後、私は支援に行くことを決心しましたが、食料不足の避難所の様子が映し出されていました。私は、食い分が一人増えることによって避難者のさらなる負担となりたくありませんでした。テレビ報道では、状況を正確に把握することは困難でした。そこで「熊本の友人達へ、地震の被害を知り大変心配しています。支援に行きたいのですが、どう思いますか?」と投稿したFacebookの回答は、圧倒的に肯定的なものでした。2011年3月11日の津波の後、同僚のALTチームと共に石巻でボランティアをしたトオルさんが自宅に泊めてくれることを申し出てくれました。そこで私は決心しました。空港が再開したら、早速チケットを購入しました。
ボランティアセンターでの初日は大概とてもいらいらさせられるものです。益城町でも例外ではありませんでした。登録作業に1時間半もかかりましたが、私は支援するチャンスを得ることができました。ボランティアセンターが開場してたった30分で必要人数に達してしまったことで、数多くのボランティアたちは参加することすらできなかったのです。初日は、5人のボランティアスタッフと共に、住民のため住宅の周りの道を清掃しました。地域に恩返しができることを嬉しく思いながら初日を終え、私はまだまだやる気に満ちており、もっとできるという気持ちでいました。2日目からはセミプロのチームと共に作業をしました。私は半分素人だったので、思った以上に大変な作業でした。
九州の伝統的な住宅は地震よりも台風に耐える構造になっています。瓦は強風に耐えるために厚くて重い。だから益城町では、屋根の重さのために一階がつぶれてしまった住宅が多かったのです。私たちの任務は、被災者達を前向きにさせるように倒壊した住宅からフォトアルバムや仏壇といった思い出の品々を回収することでした。
ボランティアは大変な仕事でした。私たちは、時折アリが森を切り倒そうと挑戦するかのような無力感に襲われました。住宅の清掃には、7人一組のチームが1日をかけて行うほどの労力が必要でした。そのような住宅は無数にありました。しかし、このボランティアは重要でした。私たちが支援している住民にとって重要なだけでなく、私たち自身にコミュニティ(熊本、日本または人類)との連帯意識をもたらし、また、災害は誰にでもいつでも起こりうることを、そして、それでも助けてくれる仲間がいることを認識させてくれました。互いを思いやる気持ちが鍵となります。すべてを失ったにも関わらず、被災者はいつも笑顔と無数の「ありがとうございます」と共にボランティアを受け入れてくれました。日本に滞在すること4年、私は「すみません」を「サンキュー」の意味で使うことに慣れきり、心からの「ありがとう」の力をほとんど忘れかけていました。疲れかけた心を充電してくれるかのように、その言葉を聞く度に再び100%の元気が戻り、次の挑戦へ向かえました。
滞在を二週間に延長したとき、新たな災害救助に携わることになり、次の挑戦が始まりました。私はInternational Medical Corps(NGO)で通訳のボランティアをしました。避難所を訪れ、外国人被災者のニーズを把握したり、布団や厚紙で作ったマットレスを運んだり、整体師の手伝いもしたりしました。
第二の故郷で過ごした二週間は、真の人間関係を築く良い機会ともなりました。昔の友達と再びつながることもできましたし、避難者や日本各地から集結したボランティアの人(中には15時間もかけて参加した人もいました)とも新たにつながることができました。何度も身体的には疲弊しましたが、全体を通して今回の経験は大変価値あるものとなりました。確かに熊本は甚大な被害を受けました。しかしたくさんの思いやりの心が、熊本を復興させるはずです。時間はかかるとは思いますが、私たちはやり遂げるでしょう。負けんばい、熊本!
ブライアン・バブアー 元新潟県妙高高原町ALT 1998-2001
「難民支援」という私のキャリアの基礎を築いたのは、日本でのJETプログラム参加の経験だ。英語教師と難民支援専門の弁護士との間に関連性を見出すのは、少し難しいことかもしれない。しかし1998年当時、私は、3mの雪が降り積もる妙高山麓の町で、異文化理解を深めながら「人に教えること」を学んでいた。そして現在は東京の片隅で、人生の危機に瀕した難民たちと日々向き合っている。
1998年から2001年にかけて、私は最も幸運なJET参加者だった。新潟県の妙高高原で私を迎え入れてくれた中学校には独自のスキーのジャンプ台が備え付けられていたし、温泉や旨い酒、そして何より、どの場面にも素晴らしい人々との交わりがあった。生徒たちは愉快で才能豊かだったし、地域の人々は温かで好奇心旺盛だった。地元のバーは、友達づくりや日本語を学ぶのに絶好の場所だったし、新潟県配属の仲間のJETたちは、みな活動的で親切だった。
配属先から教師として沢山の仕事を任されたお蔭で、私は「人に教えること」について多くを学んだ。その中には、ブラスバンド部顧問のウチダ先生の指導補助も含まれていた。妙高高原町がスイスのツェルマット村と姉妹都市であったことから、そのお手伝いを通じて文化交流についても知ることができた。また、町で唯一の外国人だったので、日本語を学ぶ機会には事欠かなかった。
JETを終えて初めて職に就いたのは、JET仲間のデイビッドに誘われて行ったネパールであった。彼は、平和部隊でネパールに派遣され、ネパールの学校経営者に養魚場設計の援助を行った経験を持っていた。彼は私に教師になるよう薦め、私はカトマンズ近郊の寄宿学校で英語兼日本語の教師として雇われることになった。そしてネパール滞在の2年の間に、私は初めて難民問題に直面することになった。
ネパールには元々、チベットやブータンといった国々からの難民が数多くいた。しかし私が赴いた当時のネパールは、王族が暗殺された直後で内紛の危機にさらされていた。多くのネパール人が、難民として亡命を余儀なくされていたのである。毛沢東主義者らが私の勤める学校へ寄付や少年兵募集を求めてやってきたり、国中の学校にストライキを決行するよう詰め寄ったりしていた。ネパールの人々が怯え、苛立つのを目の当たりにし、私自身も同様の恐怖を感じていた。妙高高原での経験が私のキャリアをスタートさせたのだとすれば、ネパールでの経験は私の人生に大きな影響をもたらすものだった。
そもそもネパールに行くまで、私にはロースクールに通うなどという発想はなかった。私は理想主義者だ。理想主義を信奉している。より良い世界を想像することすらできないのなら、理想を実現する可能性などないと考えてきた。ネパールに行く前の私は、ロースクールは理想主義者が行くべき場所ではないと考えていたと思う。しかしネパールで、人権派弁護士たちと出会い、国連やNGOのメンバーたちと交わり、ガンジー(やはり弁護士)の自伝を読む機会を得た。私のことを単純だと言う者もいるだろうが、そのお蔭で真の「天命」に素直に従えたのだと思う。私はロースクールでの3年の間に、人権法や難民法、そして政治について集中的に学んだ。
ロースクールを終えた私は、アジアへと呼び戻された。日本やネパールでの滞在経験を持つ弁護士という経歴から、私はあるポジションに迎えられたのだ。難民と聞くと、多くの人々はまずアフリカや中東を思い浮かべるだろう。しかしその実、世界中のどの地域よりアジア難民の数が多い。また、難民の置かれている複雑な状況や重大さに対し、難民保護に関する法律や政策を持つアジア諸国は非常に少ない。従って、対処されないままの膨大な問題が山積している。そうした意味で、日本のような国はとても重要だ。難民条約を批准している上、難民法もあるからだ。日本の制度には数多くの問題点があるのも事実だが、難民受け入れや難民保護のアジア独自のモデルを日本で確立することができれば、世界に向けて非常に大きなインパクトを持つ。つまり今アジアにおいて難民保護に取り組むということは、アジア地域の難民保護の枠組みの基礎を築く最前線に立つことなのである。
私が香港で難民支援組織の立ち上げをお手伝いしていた際に、現在の職場である特定非営利活動法人難民支援協会(JAR)とたびたび協力し合う機会があった。JETプログラムを終えて15年、私は再び日本に戻り、自分が最も情熱を傾けられる仕事をしている。難民の権利のために闘い、一人でも多くの難民の命を救う仕事だ。他方JETプログラムでの経験は、日本の職場環境や社会に対する高い見識をもたらしてくれただけでなく、外国人が日本へ移り住み、日本に溶け込む際の苦労等を実体験させてくれもした。
難民支援協会(JAR)の創設は、日本国内の難民たちに支援の手が差し伸べられていない現状を憂えた日本の人権活動家たちによってなされた。設立当初は職員1名だけの組織だったが、今や25名程にまで増えている。JARは、日本国内の難民の保護と支援とともに、難民の国内外での就職の援助も行っている。国家がその責任を果たさない中、アジアにおける難民保護を主導するのは市民組織であり、日本の市民組織も大事な役割を担っている。
JETプログラムに応募した時、シカゴの日本総領事館で面接を受けたことを思い出す。合格後、やはりシカゴで出国前のオリエンテーションを受け、さらに来日後にも東京でオリエンテーションがあった。最後に、配属先の新潟県でのオリエンテーションを終え、私は妙高高原町教育委員会のコジマ“ジョー”氏と出会った。彼は私をアパートまで連れて行き、洗濯機や炊飯器の使い方やゴミの捨て方、挙げ句にはホームシックにかかった時に英語で電話相談できるホットラインの番号まで教えてくれた。そして私の第二の家族となる石田館妙高ホテルでの歓迎夕食会。温かなもてなしの数々に、私はすぐに自分の新しいふるさとに深い愛着を感じたのだった。私と同時期に来日したJET参加者は数千人名程だった。日本さえその気になれば、JETプログラムで私が受けた歓待と同様に、難民たちも温かく迎え入れることができるのにと思う。もし日本が決心すれば、またたく間に世界で最も効果的で素晴らしい難民受け入れ体制を整えた国となるだろう。日本は、難民支援の分野で世界のリーダーになりうる。日本には、難民の人命救助のみならず、日本の文化的特性を生かし、ますます高まる多文化共生社会にも合致した難民受け入れを遂行する潜在力があるのだ。なぜって、日本にはすでに「JETプログラム」と呼ばれる「外国人を温かく受け入れ・住まわせ・地域に溶け込ませる」世界に誇る最高のスキームがあるのだから!
レイウィン・マグレガー JETAAニュージーランド代表
2016年5月14日(土)、オークランド、ウェリントン及びサウスアイランドのJETAAニュージーランド各支部は、CLAIRシドニー事務所、ニュージーランド姉妹都市協会(以下「姉妹都市協会」という。)との意見交換を行いました。
今年は、JETプログラムが開始されてから30周年を迎える年です。日本政府は、地方自治体及び教育機関を補助するためにJETプログラムを創始しました。このプログラムの目的の1つは、地域に根ざした国際交流を推進することです。英語圏を主として海外の青年を日本に招致し、日本で働きながら生活してもらうことで、日本の人々は他国の文化を経験することができます。同様に、日本で働きながら生活することで、JET参加者は日本について知ることができ、実体験を通じて文化理解を深めることができます。このように、JETプログラムと姉妹都市交流には共通点が多いといえます。
今年、ニュージーランド姉妹都市協会(Sister Cities New Zealand)もまた35周年を迎える重要な年になります。姉妹都市交流は第二次世界大戦後に、グローバルな個人的交流と世界の多様な文化に対する理解のために、お互いの連携の強化と平和の構築のために発展してきました。個人レベルでの関係を積み重ねることで、友好関係は世界にまで広がります。
CLAIRシドニー事務所の上坊勝則所長と所員の鈴木基大さん、小松俊也さんが、JETAAニュージーランドの国代表の私、オークランド支部、ウェリントン支部、サウスアイランド支部の主要メンバーと会うためにウェリントンを訪問し、JETプログラム30周年記念や姉妹都市交流に関するJETAAの活動について話し合いました。その際、我々は姉妹都市協会とも意見交換会を行いました。姉妹都市協会からは、モリス裕美会長、ローワーハット市長のレイ・ワラス副会長ほか、青年部のメンバーが参加しました。
姉妹都市協会から、JETAAとCLAIRに対して、日本とニュージーランドの人的な友好関係構築を支援する活動について、サプライズでの表彰状授与がありました。この活動は日ごろ我々が行っていることなので、予想外のことでした。多くのJET参加者やJETAAメンバーはそのことを意識しなくても、姉妹都市関係の促進に関係しています。日々の活動が姉妹都市協会によって認められたことは光栄なことであり、我々は今後もこの重要なテーマについて話し合いを続けていきたいと思います。
ニュージーランドからのJET参加者の多くは、日本にある41のニュージーランドの姉妹都市にも配置されており、日本がニュージーランドの文化について知るための架け橋となっています。会議に参加していた他のJETAAメンバーが姉妹都市で働いていたことを述べる前に、私は口切りとして、私が住んでいた県にはニュージーランドの姉妹都市がなかったこと、そして私には「富山友好親善大使」の役割があったことを話しました。他のJETAAメンバーも日本での彼らの経験について、姉妹都市から来たわけではなくても、ニュージーランドでの生活がどのようなものかについて日本の人たちに知ってもらうことができたと話しました。
意見交換会では姉妹都市協会がJETAAのためにできること、JETAAが姉妹都市協会のためにできることといった、どのように我々が協力していくのかということについて話し合いました。どのようにして人々の交流を促進し、またニュージーランドの姉妹都市関係を支援するための協力ができるのか。どのようにして日本から帰ってきたJETAAがニュージーランドで就職するのを助けることができるのか、などについてです。
この意見交換会では以下の2つのアイディアが出ました。
-姉妹都市協会は、JET経験者に対して、会員となっている地方自治体への就職の支援をすることができる。
-JETAAは、既に日本文化を理解しているボランティア要員を提供することによって、姉妹都市関係を構築/再構築する手助けをすることができる。
JET経験者は既に日本と、日本にあるニュージーランドの姉妹都市についての知識を有しており、帰国後にその知識を共有することに積極的です。国際関係の仕事を探す元JET参加者もいますが、帰国後すぐにそうした仕事を探すのには苦心しています。多くの地方自治体は彼らの専門能力を必要としていますが、どのように彼らを探して良いのか知りません。JET経験者は地方自治体の仕事に就くことができるかもしれませんし、また純粋なボランティアとして姉妹都市交流を支援することができるかもしれません。我々は地方自治体との連携がより容易になることを望んでいます。
また、どのようにして日本の姉妹都市に、より多くのニュージーランドJET参加者を配置することができるのかについても話し合い、JETプログラムの応募者に対して、前もって姉妹都市の情報を提供することにしました。
姉妹都市関係の市民団体には、たくさんのJET経験者がボランティアとして参加しています。もし近くにJETAA支部がなかったとしても、ボランティアに参加することで、彼らは帰国後にも、日本とニュージーランドの人と人との交流活動に参加する機会を得ています。JETAA支部がない地域のJET経験者にボランティアの機会を提供していただいていることについて、姉妹都市協会の気配りに感謝しています。
この意見交換会の後にも、我々は意見交換を続け、より友好を深めるため、姉妹都市協会、CLAIRとともに夕食会を行いました。
姉妹都市協会とJETAAは異なった目標を掲げていても、人と人とのつながりや地域住民に根ざした国際化という目的を共有しています。両者は、今回の機会が両者の親密で実りある関係のスタート地点であることを望んでいます。我々を引き合わせてくれたことについて、CLAIRに感謝いたします。
クォン・ジュヒョン 元北海道二セコ町国際交流員 2012-2015
JETプログラムは今年30周年を迎えました。そのうち、韓国がJETプログラムに参加してからは24年、JETAA大韓民国支部(旧ハンウリ会)が結成されてからは21年が経ちます。JETAA大韓民国支部は、①JETプログラム参加者間の交流活動、②JETプログラムの広報活動、③韓国と日本の文化交流活動の主に3つの分野で活動をしています。
①JETプログラム参加者間の交流活動
現在、日本で働いている韓国人JETプログラム参加者は60名程度です。その人数はあまり多くも少なくもないため、日本にいる時から韓国人JETプログラム参加者はお互いに活発な交流をしています。JETAA大韓民国支部は、その絆が韓国に帰国した後も続くように、年に2回、JETAAメンバーが集まれるイベント(総会と同窓会)を開催しています。また、JETAAのための「キャリアアップ交流会」も行っています。この交流会には、CLAIRソウル事務所や在韓日本大使館の関係者をはじめ、韓国に進出している日系企業の関係者が参加し、JETAAメンバーのネットワークを広める機会としています。また、現役JETとの関係もとても大事にしています。従って、毎年、在韓日本大使館で行われている「新規JET歓送会」に参加し、経験者としてのアドバイスをしながら、JET参加者の輪を広めています。
②JETプログラムの広報活動
韓国と日本の交流にとても大事な役割を果たしているJETプログラムをもっと多くの韓国人に知ってもらえるように、JETAA大韓民国支部はJETプログラムの広報活動にも力を注いでいます。その中の一つが「JETプログラム説明会」です。ソウルと釜山で年に1回ずつ開催する説明会では、JETAAメンバーがJETプログラム選抜試験の準備方法、JETプログラム参加者の仕事内容、JET終了後の進路などについてJETプログラム参加希望者に説明します。また、一般の方にもJETプログラムの存在を広報しています。2015年には、「日韓交流まつり」にJETプログラムPRブースを設置し、JETプログラム参加者たちの活動写真展を開催しました。お祭りに訪れたたくさんの方々へ「韓国と日本の友好のために、このように働いている人もいる」ということをアピールできた時間でした。また、このブースにはJETプログラムに参加したい方もたくさん訪れ、相談会も行いました。
③韓国と日本の文化交流活動
JETAAが韓国で誕生した時、韓国のJETAAメンバーたちは、帰国してからも韓国と日本の交流をサポートしたいと思いました。そこで、自分たちができることを考え、CLAIRソウル事務所や在韓日本大使館と協力し、「日韓交流スピーチ大会」というイベントを開催することになりました。この大会は、韓国人は日本語で、日本人は韓国語でスピーチをするイベントです。スピーチの内容は、お互いの文化を紹介することや、お互いの国で起きたエピソードなど両国への理解を深めることが主となっています。このイベントを通じて、韓国人のJET参加者たちは帰国してからも「JET」をキーワードに韓国と日本の交流の架け橋として活動しています。
このように、JETAA大韓民国支部は帰国してからも、JETとの絆、日本との絆を大切にしながら、持続的な活動に、懸命に取り組んでいます。
ルーク・ハップル 元宮城県国際交流員 2009-2013
平成28年3月13日、東日本大震災から5年を追悼するイベントが、復興庁・宮城県・岩手県・福島県のご協力の下、自治体国際化協会と仙台市の共催で開かれました。
せんだいメディアテークで行われたこのイベントは、震災当時東北地方で任用されていたJETプログラム参加者の経験に焦点を当てられており、様々な国籍の地域住民が数多く出席しました。
本イベントでは、震災当時東北地方で任用されていた3人のJETプログラム経験者と当時のJETプログラム担当者によるパネルディスカッションが行われました。エフエム仙台のラジオパーソナリティである板橋恵子さんの司会のもと、パネリスト達は震災の際の経験を語りました。Amanda Wayamaさんは地元の参加者の安否確認に苦労したことを語りました。Kevin Hsienさんは、福島第一原子力発電所で深刻な事故が起きた後も、地区に残り、近所の人々やJETプログラムに参加していた同僚を支援する決心をしたことについて話しました。また宮城県名取市に勤務していたMarshall Ikedaさんは、仮設住宅でどのように2週間過ごしていたか、またそこで被災した子供達に英語を教えていたことを語りました。堂々とそれぞれ苦労した体験について話した彼らは、JETプログラムがいかに優秀で前向きな人材を日本にもたらし、彼らがどれほどJET参加者同士や配属先の地域と深い絆で結ばれているかの証でもあるのです。
パネルディスカッションに続いてドキュメンタリー映画「夢を生きるテイラー・アンダーソン物語」の上映がありました。当時JETプログラム参加者であったテイラー・アンダーソンさんとモンティー・ディクソンさんは2011年3月の津波の犠牲となりました。本作では、テイラーさんのひらめきに満ちた人生や彼女が日本で住み働きたいという夢をどのように追いかけたのかが描かれています。テイラーさんの志を継いで奈良県でJETプログラムに参加した、弟のジェフリーさんも出席し、姉テイラーさんが遺したものについて彼の思いを語りました。聴衆は上映された映画やジェフリーさんの話にとても心を動かされ、司会者が、涙を流す場面もありました。
本イベントは、震災の記憶を風化させないためのとても大切な機会となり、犠牲となった方々を思い起こす契機にもなりました。