2018年JET Streams冬号
ニュース
JETAA(元JET参加者の会)
JETの向こうに
JETプログラム事業部、CLAIR
2017年10月26日から11月10日まで、CLAIRがJETを任用する自治体と協力し、元JET参加者を活用してJETプログラムの貢献をさらに拡大するためのプロジェクトに挑みました。それはJETふるさとVisionプロジェクトです。3月17日から5月8日の1か月半をかけて、世界中の元JET参加者を対象に、自分の元任用団体の活性化につながるような企画を募集し、106件の応募の中から8名の元JETの企画が選ばれました。
プロジェクトは2年連続で行う予定です。今年は西日本の元JET参加者が対象でしたが、来年は東日本が対象になります。ここで、今年の参加者の声を交えながら、プロジェクトの内容をご紹介します。
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島根県浜田市 ー ローズ・タナスガーン氏は島根県でALTを務めていましたが、一旦帰国した後また日本に戻り、現在は神戸市内のホテルでマーケティングやセールスの仕事をしています。PR戦略に詳しいローズ氏は、そのノウハウを浜田市のために活用し、浜田市のPRをテーマにした意見交換会を島根県立大学生や市の職員と一緒に行いました。また、ALT時代から築いてきた人脈を活かし、地域の外国人に浜田市の魅力を知ってもらうため、石見地域の名物である「石見神楽」と「石見焼き」を鑑賞・体験するイベントを企画しました。台風による荒天によりイベントが中止になりそうでしたが、イベントが始まると徐々に天気は回復し、多くの参加者にご来場いただきました。ローズ氏からは「本当にいいことばかりでした。久しぶりに地元に帰ってきた感覚で、町の人や教え子や元同僚との偶然の再会がとても懐かしく、(地域に)貢献できたことが最高でした。」というコメントを頂きました。
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愛媛県 ー ジェシカ・シェパード氏はJET終了後母国のカナダに帰り、大学院に進学しました。勉強の傍ら、日本大使館のイベントなどで日本酒のソムリエを務めていて、ケベック州で日本酒の魅力を紹介しようとしてきましたが、イベントの来場者に「これはケベックでは手に入らないお酒ですよ」と伝えると、いつも来場者が悲しい表情を見せました。そこでジェシカ氏は、日本酒をカナダに輸入する資格を取ると共に、JETふるさとビジョンプロジェクトで元任用団体である愛媛県に戻り、地元の酒蔵関係者と会ってケベック州への輸出の商談を企画しました。数多くの酒蔵を訪問した結果、取引ができそうな酒蔵を見つけることができ、ジェシカ氏は現在、輸入・輸出の最終調整に励んでいます。
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大分県 - JET終了後に美術史の教授になったマイケル・カラスコ氏は、JETふるさとビジョンプロジェクトをきっかけに、JET参加時に出会った大分県竹細工の研究をはじめました。大分県内の各地を回り、竹細工の有名な職人のほかに、県立美術館の関係者及びキュレータ、竹林業の関係者、伝統工芸の保護や継承を務める方などに会い、インタビューを行いました。マイケルさんの夢は、自分の大学に竹細工の関係者を招へいしたり、竹細工の展示会を開いたりして、大分の竹細工を広く発信することです。今後は、プロジェクトを通して築いた人脈を活かし、次のステップのための準備を進めています。
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京都府 - JETふるさとVisionプロジェクトで京都府に里帰りしたのは、2世日系アメリカ人のパトリック・モナリ氏です。小さい頃、家庭では日本語をあまり話さなかったですが、やはり和食が食卓に上ることが多く、身近なものと感じていました。そして、JETプログラムで京都の名物である京野菜と京漬物に魅了され、JETふるさとVisionプロジェクトの企画のテーマにしました。CLAIRが京都府と京都府漬物協同組合と連携し、大手京漬物メーカーの関係者や、老舗の京漬物職人、京野菜のPRに従事している府の職員等とアポをとり、パトリックさんと一緒にインタビューを行いました。パトリック氏はプロジェクトが始まる前、1週間の農業体験で京野菜の特徴や作り方を学びました。彼は和食を紹介するFacebookページを管理しており、SNSで京漬物の魅力を発信するほか、地元のスーパーやレストラン関係者を対象に漬物に関するワークショップを開く予定です。
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徳島県 ー キャサリン・オズグッド氏は、JETプログラムで初めて特別支援教育に出会い、JET終了後には特別支援教育の教員になり、特別支援教育の研究や、要支援者に対する理解を深めるための啓発活動に献身的に取り組んでいます。そのパッションを授けてくれた徳島県に、JET終了後に身に着けたスキルとノウハウを共有し、恩返しするということで、JETふるさとビジョンプロジェクトに応募しました。10年ぶりに里帰りしたキャサリン氏は、JET参加時に担当していた学校を訪問し、特別支援教育の現状を研究したり、教育関係者と意見交換を行ったり、また、現役JET参加者や教育関係者のためのワークショップを開き、特別支援教育のBest practicesについて発表しました。キャサリン氏の企画について、徳島県の関係者は「分野が限定された企画であったため生徒やセミナー参加者の興味を引くことができるかどうか不安でしたが、教員や生徒に暖かく受け入れられ、セミナー参加者も積極的に質問するなど、特別支援教育について考える良い一歩になったのではと感じています。」とコメントしています。
- 北九州市 - ジュリアス・パン氏は写真家で、「写真ツアーガイド」もしています。日本各地の絶景スポットを巡るコースを開発したジュリアス氏は、写真好きの外国人を日本に連れていって、撮影に関する講習を行いながら、ベストショットが撮れるスポットを紹介しています。現在開発しているコースは北海道や東北、関東、関西にありますが、元任用団体である北九州市を含むコースはまだありません。北九州市の魅力をより多くの人に知ってもらうため、ジュリアス氏が北九州市の協力を得ながら、5日間市内の各絶景スポットを巡り、カメラやドローンによる写真撮影を行いました。普段撮影ができないところで撮影の許可を得られるよう、北九州市の協力が欠かせませんでした。撮影した映像を市がPR活動で使えるように編集・加工をし、開発したコースを自社のツアーで提供することを検討しています。外国人の目線で開発した観光コースは、市がこれからの観光戦略の参考になるといっています。ジュリアスさんの活動が、地元のケーブルテレビ局と新聞に取り上げられ、また、SNSで多くのフォロワーを得ています。ジュリアスさんは他の元JET参加者に対して、JETふるさとビジョンプロジェクトをお勧めしています。「CLAIRや自治体から最大限のサポートを頂くし、日本のことを世界に発信することもできるので、きっと有意義な事業になると思います。このプロジェクトを継続していただければ嬉しいです。」というメッセージを送っています。
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宮崎県都城市 ー 元都城市のCIRであるボルドバートル・ツェンデスレン氏は、JETを終了後、しばらく都城市の地元ケーブルテレビ局で仕事をしていて、テレビ業界での経験を積んできました。今は母国のモンゴルに戻ってはいますが、都城市のテレビ局との交流を続け、都城市のことにいつも目を向けています。そこで、都城市の関係者がモンゴルの首都であるウランバートル市で都城産の和牛を売り込もうとしていると聞いて、モンゴルのテレビ局及び都城市のテレビ局とのつながりを活かして和牛を紹介する番組を作成することにしました。ツェンデスレン氏が番組の企画・ディレクター・取材・編集等を行い、都城市のBTVケーブルテレビが協力し、カメラマンを派遣してくれて、都城市がロケ地の選定や農業関係者との調整をしてくれました。収録を終えたツェンデスレン氏は「和牛の輸出を広げようとしている私のプロジェクトに対し、都城市の皆さんがとても喜び、感謝してくれたことこそが何より嬉しかったです。モンゴルに帰ってから編集作業はありますが、皆さんに喜んでいただいた分、頑張っていい番組を作りたいと強く感じています。」と述べました。
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熊本県天草市 ー コミュニティー・アーティストであるザッカリ・ジャンサン氏は、JETふるさとVisionプロジェクトで、元任用団体である天草市の牛深地区と、地元のグラン・ラピッズ市のバートン・ハイツ地区の共通点を探るアート企画に挑戦しました。それぞれの地域は異なる社会問題に直面していますが、両地域では空き家や空き店舗等が増えてきており、人口の流出が続き、地域の過去が忘れられつつあります。それを見たザッカリ氏は、町の移り変わる風景だけでなく、変わることのない住民のふるさとに対するプライドや思い出に注目するアートプロジェクトを企画しました。両地域の住民が、思い出のある場所について文章をつづり、ザッカリ氏が住民と思い出のある場所を撮影しました。場所・人・文章の3点を合わせ、来年の夏にグラン・ラピッズ市内で展示会を開く予定です。これからの展示会について、「人がふるさとの魅力を再確認することができ、それで地域の力になればうれしいです」とザッカリ氏は期待しています。
参加者全員が、食事を取る時間も惜しいほど、タイトなスケジュールで動き、短いプロジェクト期間を最大限に活用してくれました。
タフなスケジュールではありましたが、参加者全員が口を揃えて「JETふるさとビジョンプロジェクトを元JETの皆さんにおすすめします!」と話しています。
東日本に元任用団体がある元JET参加者の皆さん、2018年2月から企画の募集を始めますので、JETプログラムのホームページをご確認ください!
Richa Orga、元大阪府ALT、 2006年~2008年
大阪でJETの旅が始まったのは2006年の秋でした。いろいろな意味で人生を変える経験でした。遠くて、知らない国が私の人生の大事な一部になり、キャリアの方向も変えるとは思わなかったです。 大阪でJETの旅が始まったのは2006年の秋でした。いろいろな意味で人生を変える経験でした。遠くて、知らない国が私の人生の大事な一部になり、キャリアの方向も変えるとは思わなかったです。
大阪のALTとして、日本人のおもてなし、愛、気遣い、そしてユニークなところを体験しました。JETプログラムがはじめてインドからの参加者を受け入れた年でもあり、20人が来日しました。
ALTとして働いた2年間、多くの中・高等学校に訪問しました。担当者と日本人の同僚のおかげで、学校内だけではなく、地域中にもインドの文化や教育制度について知識を広めることができました。
英語を教える経験のある者として日本の学校で教えるのはいい経験になりました。ALTとしてサマーキャンプやさまざまな学校行事に誘われました。生徒はインドの文化に興味を持ってくれて、いつもインドの学校生活と学校について質問してくれました。インドの学校と大阪の高校の文通活動も始めました。
日本人の同僚は自分のレッスンをただアシストさせることもなく、一緒に授業を計画させていただきました。授業の目標をより効率的に達成するため、そして、授業をより楽しくするための新しいアイディアを積極的に受け入れてくれました。教育委員会の担当者をはじめ、同僚、ホストファミリー、他のJET参加者は私が日本で安心に暮らして成長することに大事な役割を果たしていました。日本に住んでいる間、良いサポート・システムがあったと感じました。
一番難しいのは帰国してからの生活に慣れることです。逆カルチャー・ショックはインドのようなJET参加者が少ない、JETAAはまだ初期階段である国に住んだ方が対処しにくいものです。
この10年間でインドから来るJET参加者は数人しかいませんでした。そのせいで、元JET参加者のコミュニティーを作ることは難しい提案でした。しかし、2017年に二人(ALT一人とCIR一人)のインド人がJETに参加するチャンスをいただきました。インドの優秀な若者が日本の美しさと文化を経験できるように扉を開く、再スタートになるといいです。たった50人ぐらいしかおらず、世界中バラバラに住んでいる、小さいグループであるため、人を集めるのが課題です。しかし、この2年間で積極的に繋がりを復活しようとしています。
JETAAインド支部が設立されるための第一歩は2007年から2008年まで福岡県のALT、Divya Jha氏が踏み出しました。去年東京で開催されたJETプログラム30周年記念式典ではJETAAインド支部ははじめて代表を送ることが出来ました。インド人の元JET参加者と再びつながり、今ではメールや会議、日本大使館が開催する日本フェスティバルのようなイベントを通して、頻繁に連絡を取っています。地方で小人数のミーティングを含め、一歩一歩進んでいます。しかし、この一歩一歩はインドで日本の文化と言語の認知度を上げるJETAAインド支部の設立に繋がると信じています。新しいインド人のJET参加者のために指導、サポート、キャリアカウンセリングを提供できる強い支部になるのが目標です。
日本とインドの社会は仏教から来る共通文化や習慣があります。私がインドから来たと知ったとき、暖かくてフレンドリーで優しくしてくれる日本人と出会い、このつながりを感じました。インド人のJET参加者は日本の社会に貢献できると思います。
3ヶ国語が話せる、社会的や文化的に似ている、そして教育制度の共通点も多いことから、インドのJET参加者は日本社会と生徒のニーズが理解できます。マルチリンガルですので、日本人の生徒にとって難しいところを理解し、英語や異文化の勉強をより楽しく、より簡単になるように工夫できます。日本文化を理解しているから、学校以外のコミュニティーに繋がって貢献したら、国と国の関係も強くすることができます。
現時点では、インド人のJET参加者が少ないですが、将来にもっと貢献できる機会が来るといいですね。我々JETAAインド支部は昔から繋がっているインドと日本の絆がインド人のJET参加によりさらに強くなると期待しています。
Richa氏は2006年から2008年に大阪市でALTとして働きました。現在インドのノイダに住んでいます。異文化、行動、ソフトスキル、英語を専門にする企業トレーナーとして働いています。暇な時に、読書、日本語学習、そして、日本の素敵な文化を5歳の娘に紹介することが好きです。
ローズ・タナスガーン、元島根県ALT、 江津市1993年~1996年、浜田市2003年~2006年
JETプログラム同窓会西日本(JETAAWJ)は平成29年11月18日に兵庫県立美術館においてJETフィルムフェスティバルを開催しました。およそ50名に出席してもらいました。
公益財団法人兵庫県国際交流協会(HIA)、日本国際連合協会兵庫県本部及び公益財団法人神戸国際協力交流センター(KICC)の共催で、JETAAWJ は昨年のJETプログラム動画コンテストで受賞した10件と兵庫県の参加者が作った2件の動画を上映しました。
イベントの主要行事は、「夢を生きる テイラー・アンダーソン物語」というドキュメンタリー映画と上映前のテイラー・アンダーソン氏の父親アンディー・アンダーソン氏からのビデオ挨拶でした。テイラー氏とモンティ・ディクソン氏は平成23年の東日本大震災で亡くなったJET参加者の2人です。当フェスティバルで行った募金活動では、出席した方よりテイラー・アンダーソン記念基金への寄付金となる4万1千円を集めました。テイラー・アンダーソン記念基金は、東北の子供たちの支援活動の企画、アメリカと日本の間の絆の強化と東北の学校で立ち上げる「テイラー文庫」の設置に力を入れて取り組み続けています。
当イベントでは、大阪・神戸米国総領事館の副領事ケビン・オドリスコル氏にも出席をいただき、大変光栄に思いました。オドリスコル氏はJETプログラムの30周年のお祝い言葉として、「JETのような事業は国際交流を推進しながら、生徒たちと教師の方の人生を豊かにします。JETプログラム参加者が与える貢献の例として、テイラー・アンダーソン氏より良い例が考えられません。テイラー氏は言語や文化の違いにとらわれずに、大好きな日本の多くの方々との絆を作ることができました。彼女のレガシーは今でもテイラー・アンダーソン記念基金を通じて生き続けています。」と述べました。
自治体国際化協会(CLAIR)のプログラム・コーディネータのスティーブ・コルベット氏は宮城県石巻市のJET参加者同士としてテイラー氏の友人であり、今回のイベントに来賓として出席しました。「JETAAWJの最初のJETフィルムフェスティバルに参加させていただき、非常に嬉しいです。JET参加者と元JET参加者が日本のふるさとで作った絆を様々な人に見せることができ、貴重な機会となりました。本日上映された動画は参加者の郷土愛を明確にします。‘夢を生きる テイラー・アンダーソン物語’は日本とJET参加者の全ての母国の間に作られてある架け橋の特に感動的な例です。多くの人に出席していただき、テイラー・アンダーソン記念基金のために募金できて非常に喜んでいます。JETの絆をできるだけ多くの人に見せられるように毎年実施できればいいと思います。」と述べました。
今回の企画や実施をボランティアで行ったのは元JET参加者と現役JET参加者、地域の方々でした。HIAのボランティアであった大学生の松田トモ氏は「ショート映像を見て、僕が知らない日本について学べました。機会があれば、またボランティアとしてJETプログラムのイベントに参加したいです。」と述べました。
JETAAWJ会長のルイーズ・デンディ氏は「本日のイベントの準備に関し、共催のHIAと兵庫県立美術館、そして協力団体のKICCに各種の支援をいただきました。多くの地域団体がJET参加者や他の在住外国人を含めた国際交流を促進する意志があることが明らかになりました。参加した皆様はJETプログラムの貢献を感じた人が非常に多いということをさらに考えさせられました。他に、平成23年の東日本大震災直後に世界の人々の支援をいただいたことを重ねて明確にしました。今回テイラー・アンダーソン記念基金のため、4万円以上を募金し、大変喜んでいます。そのお金は被災地や被災者を支える義援金として使われます。」と話しました。
HIA事業推進部長の島田三津起氏は「HIAと兵庫県立美術館がJETAAWJの主導で共催し、JETプログラムの30周年を祝えて本当に嬉しかったです。本イベントは兵庫県・神戸市の日本の方と外国の方が交流できる場を設定し、フィルムフェスティバルと交流会で話し合える機会になったということで、非常に有意義で楽しかったです。上映された動画は、日本人のもともとの暮らしである山や海などの地方の魅力を発見したJET参加者の視点から日本各地の美しさを見せてくれました。JET参加者の日本愛がよく分かりました。そしてテイラー・アンダーソンさんのメモリーを永く生き続けるようにしました。JET参加者は学校の言語の先生や市役所と県庁などの職員だけではなく、日本の若者に翼を広げて世界の人になるよう鼓舞し、将来は自分で創造することを教えるものです。他に、日本のふるさとの生活や文化を海外の方々に共有できます。私はJETプログラムに深く感謝しています。今日のイベントで分かったのは、JET参加者は‘非常に効果的な大使’です。日本の多文化社会への変化の重要な役に立っています。JETプログラムのメリットを日本の人にシェアし、このような国際的なイベントを引き続き開催したいと思います。」と結論づけました。
オーディエンスの方の数人は感動し、自分の上映会の開催についてJETAAWJまで問い合わせました。テイラー氏の父親アンディー氏はビデオ挨拶で「‘夢を生きる’の上映会は、日本のことや東北と東日本大震災で亡くなった方のことを思い出せます。テイラー氏とモンティ氏と同じように東北のことを忘れないで。その2人に重要であった架け橋を守るのは私たちです。テイラー・アンダーソン記念基金への寄付等を本当に感謝し、JET同窓会の支援はありがとうございます。皆様、夢を生きてください。」と言いました。
モニカ・ユキ、元埼玉県ALT、2002年~2004年
2017年にはJETプログラムが30周年を迎えました。日本政府が実施しているこの草の根交流プログラムは、世界中から66,000人以上の大学卒業生を公立学校や教育委員会に送り出しています。多くの参加者にとって、教師になる、翻訳の分野で働く、外交関係のキャリアにする、という人生が変わるきっかけになります。あるいは、日本で暮らす素晴らしさを体験できます。
参加者は多様ですが、共通点はJETプログラムが人生の大事な一章になったことです。30周年を記念するために、300人以上の元JETと彼らの家族と友達はJETAAUSAが生まれた都市で集まり、JETらしくお祝いしました。JETAAUSAは、日本との繋がりを守る価値があると思っていた数人の元JET参加者が、JETプログラムを広げるためにワシントンD.C.で設立しました。この30年に、JETAAUSAは成長しつづけ、現在32,000人のOB・OGを支える、50州に渡る19支部があります。
記念式典は2017年8月4~6日にワシントンD.C.にあるオムニショアハムホテルで開催されました。イベント名はJET30 ReunionでNPO法人USJETAAが主催しました。「再び繋がる、お祝いする、思い出にふける」というイベントの目標に達するための完璧な場になり、この30年を振り返り、世界で最も成功を果たしている草の根交流プログラムの一つとしてこれからも成長し続けます。ブラジルやカナダや日本やジャマイカ等各地から来る300人以上の元JET参加者が出席した今年の最大イベントとなりました。
JET30 Reunionでは3日間のイベントで日本と再び繋がって、元JET同士で経験について語る機会が多くありました。去年であれ、30年前であれ、日本での生活についてたくさん話が出てきました。
金曜日に「なつかしいホール」を訪問することから始めました。ホールは日本の画像と大きくて美しい鳥居と日本にいる間元JET参加者が取った写真のスライドショーで飾られました。19支部は今取り組んでいる素晴らしいプロジェクトを見せる掲示板を作成しました。木工技術、茶道、折り紙、武道のような日本の伝統文化を紹介するブースを提供してくれた現地の日本関係の組織に感謝しています。この懐かしい文化を再び体験することだけではなく、家族や次世代へ紹介することができました。
金曜日の午後に、NPO法人USJETAAの会長、そして、JETAAUSAの設立者の一人であるペイジ・コッティンガム‐ストリーター氏が挨拶を申し上げました。このイベントのために東京から訪れた自治体国際化協会の参与福川正浩氏とアメリカ合衆国日本国大使館の首席公使尾池厚之氏が出席していただきました。挨拶の後、「1987年から2017年の日米関係強化」のテーマの下で、優れた元JET参加者によるパネルディスカッションが行われました。続いてThe JET Program and the U.S.-Japan Relationship: Goodwill Goldmineという本の著者、元JET参加者のエミリ―・メッツガ―教授による講演がありました。
金曜日の夜までには全てのゲストが集まって駐米日本大使公邸で行われた式典に日米コミュニティや著名人招待客と参加しました。美味しい和食を食べて、茶室を訪問して、知り合いや初対面の元JET参加者に会うのを楽しみました。JETAAイベントなどで一緒に勤めた多くの元JET参加者の前で挨拶をする機会を得て光栄でした。12年間活動してきて、JETAAUSAの代表として思い出に残りました。
土曜日は素晴らしい一日になりました。交流、講義、食事、ゲーム、その他のお祝いでいっぱいでした。参加者がJET年度による席順に座って交流朝食会から始まりました。自分のJETストーリーについて話し合う機会となり、Looking Back and Moving Forward: JET in Perspectiveというプレゼンもありました。その後に、アメリカ合衆国国務省の方や財務省の方や世界銀行の方などのパネリストによるInvesting in Changeというテーマについてのパネルディスカッションが行われました。
日本語、地理、映画、ポップカルチャーなどについて日本のクイズを日米協会が企画してくれました。交流昼食会のとき、皆様が席替えして、今回配置された県によって座りました。同じ町に住んでいた人と出会った、また、年が違うが、同じ学校で働いていた人と出会った、というストーリーも聞きました。インターネットとSNSが流行する前にJETに参加した方の再会という話も聞きました。食べた後、Engaging and Enriching Diverse Communitiesというテーマの下でパネルディスカッションがありました。
土曜日の午後は、元JET参加者の専門家による三つのパネルディスカッションから選ぶことができました。テーマはJET: The Next 30 YearsとMaking the Network WorkとJETs Educating the Next Generationでした。その日の最後のプレゼンはTraditions and Tales: Spotlight on the Japanese Cultureでした。
長い一日は日本風の提灯に照らされたテラスでの楽しい夏祭りで終わりました。ゲストの皆様は浴衣や甚平や法被を着て、熱いワシントンD.C.の夏の中で涼しさを保つためにJET30ロゴが書いてある扇子を使いました。祭りはUSJETAAの取締役Laurel Lukaszewskiによる乾杯挨拶から始め、JET30ロゴで特別に作られた杉の升で皆様が乾杯しました。航空会社のANAから頂いた日本までの航空券が当たるくじの結果発表がありました。特に印象に残ったのはJETwitの作成者Steven Horowitzが計画したMoth(ra) Storytellingでした。NPO法人Mothのストーリーテリング・イベントのようにOB/OGがJET経験の中から一つのストーリーを語りました。
今年のJETAAUSA全国大会はJET30 Reunionの2日前から開催されました。ハワイとアラスカを含めて各支部2人の代表が来て、活動について発表しました。今年の目標としては支部の基礎となる財務と会員とリーダーシップを強化することに集中しました。特に非公式の支部の増加について話し合いました。
日曜日のいくつかのオプショナルツアーでJET30 Reunionが終了となりました。ディスカバリー・コミュニケーションズ本部(メディア関連企業)のツアー、アメリカ議会図書館の日本語コレクションを見るプライベートツアー、寄付されたさくらについて学ぶためにDC Rangerによるウォーキングツアー、酒造でのテイスティングなど、特別なツアーが多く提供されました。
昔からの友達との再会と新しい友達との出会い、楽しいことでいっぱいの週末となりました。時間をかけて準備してくれた30人以上の元JET参加者のボランティアにとても感謝しています。そして日本国大使館、CGP、自治体国際化協会、Sachiko Kuno Foundation、日米協会、ワシントン日本商工会、航空会社ANA、そして、個人的に寄付してくれた沢山の方々のご協力のおかげでイベントは大成功でした。
元JET参加者の皆様に地方のJETAAと繋がって、次世代のJET参加者のサポートや日米関係の強化に貢献していただければと思います。そして、USJETAAのウェブサイトでメーリングリストに登録してください。次の記念式典にもっと多くの方々が参加するといいですね。
プロフィール
モニカ・ユキ氏はJETAAUSAの国代表、JETAANY支部の理事長、そして、NPO法人USJETAAの役員会の一員として勤めております。JET以外では、Athlon Media Group(メディア関連企業)で研究の担当として働いています。ユキ氏は2002年から2004年に埼玉県でALTでした。現在ニューヨークに住んでいます。Monica.yuki@jetaausa.comで連絡してください。
バネ・セルジェビク、元宮崎県ALT、 2013年~2014年
バネ・セルジェビクと申します。2013年から2014年まで宮崎県立佐土原高等学校でALTとして働きました。アメリカのシカゴから来ました。シカゴと言えば、ウィンディー・シティ(シカゴのニックネーム)、シカゴ風ピザ、そして、負けっぱなしアメフトチーム!私はセルビア系アメリカ人(セルビア語も話せる!)で、まだ勉強中の多芸多才な人だと勝手に思っています。現在、ソフトウェアコンサルタントとしてフェイスブックのためのプロジェクトをしながら、Lock Chicago(ロックシカゴ)という体験型脱出ゲームを自分で企画しています。2012年にパデュー大学のクリエイティブ・ライティング学科から卒業したと考えると意外な展開でしょう。
卒業して初仕事はプロブロガーでした。学生ローンを返済しながら、やりたいことを探す自由さがある仕事でした。バイオディーゼルエンジンのメーカーから歯医者まで多岐に渡る読者のため、目を引く記事を書くのは楽しかったですが、「テイラー・スウィフトと付き合うのはスタンガンより危険」のような記事を書くのは私のやりたいこととちょっと違う気がしました。だから、生活に変化を取り入れ、日本へ引っ越すと決めたので、JETプログラムに応募しました。
このような応募動機は私だけではなく、周りのALTも似たようなシチュエーションでした。JETプログラムの特徴本質の一つはやりたいことがまだわからないけれども、待ったり考えたりする代わりに積極的にそれを探している、多くの人にとって一時の仕事だと気付きました。来日してから半年、帰国後何をやりたいか考え始めました。最初から一年間しか日本に滞在しない、そして、プロブロガーはもういいとわかったので、クリエイティブでテクニカルな仕事のおすすめを何人かの友達に聞いてみました。彼らの意外な答えはコンピュータープログラミングでした。
クリエイティブ・ライティング修士からはコンピューター科学やプログラミングに係わる機会はあまり得られないので、私の知識は限られていました。「1+1=2」や「If X then Y」ばかりの、つまらなくクリエイティブではない仕事だと思っていました。HTMLとCSSは体験したことがあったので、その体験から興味がないと判断したのです。しかし、友達は違う絵を描きました。プログラミングは100万通りの解答がある問題を解くために100万のジグソーパズルのピースを持っているようなもので、パズルのピースの並び方で自分のクリエイティビティを出せると説明してくれました。お陰で興味が湧いてきました。
教授や専門家による音楽理論からプログラミングまで幅広いテーマを学べるcoursera.orgというウェブサイトで無料のアカウントに登録しました。汎用のプログラミング言語であるパイソンを使い、簡単なAsteroidsゲームを作るクラスを受けました。予想以上に楽しくて驚きましたが、10万ドル以上の学生ローンを受けて4年制大学に戻る気はありませんでした。基礎を学べるプログラミングのテックキャンプに参加して、OJTをすればいいとアドバイスしてくれた友達にはまた助けられました。とてもいいアイディアだと思い、シカゴのテックキャンプを調べ始めました。
DevBootcamp(既に)というプログラムを選びました。都会だとアプリ開発から始め、ウェブ開発、サイバー攻撃対策等、多くのテックキャンプがあります。DevBootcampは4か月間の集中的なウェブ開発のプログラムで、2ヶ月間毎日現地でウェブ開発の基礎を勉強しました。帰国して次の日から始めるプログラムに入学しました。とてもハードでしたが、4か月後卒業して、さらに1か月が経ったところで初めてのウェブ開発の仕事をスタートしました。
プログラミングが好きで新しい仕事に大変満足していました。やりたいキャリアをやっと見つけ、さらにキャリアとは別にやりたいことも見つけたと気付きました。トレーニングは私のクリエイティブな一面を引き出し、その使い道を見つける必要がありました。それで、体験脱出ゲームを始めようと決めました。日本に住んでいる間、体験脱出ゲームのことについて友達から初めて聞きました。友達はカルフォルニアでゲームをして、カンザス州のマンハッタンで自分のゲーム(Locked Manhattan)を開きました。リスクの低いビジネスですし、デカいパズルをデザインすることより楽しいことはありますか?ありません、と思って行動し始めました。
起業するのは大変そうでした。私はビジネスの経営者になれるでしょうか?企業家やビジネスに詳しい人しかできないイメージがありました。学習曲線があると思いますが、タスクを分析し、次々仕上げてみたら、やることはそんなにないと感じました。暇なときにすることのようでした。テストの回答用紙でまるを埋める作業のようでした。ただやり続けると結果がだんだん見えてきます。行動から結果が生まれるというすごい発見でした。
数か月後起業して、ほぼ2年間営業しています。街路に面する窓があり、より広い部屋とより高い天井がある(一時間もの間、閉じこまれる人にとって適した環境)新しい場所に移転しました。そして、就職してから14か月後もっと楽しくて新しい仕事へ転職し、行動し続けています。転職する前に1か月の休みを取ってJET時代の友達に会いに行きました。
次の一歩はどうやって決めるか、ゴールは何にすればいいのか、夢はどうやって叶えるか、こういう質問に悩んでいる人へのアドバイスとしては、ただ行動してみたらどうですか。それはあなたの夢じゃないかもしれませんが、夢が人生の全てではありません。バスケットボールをする人は他のスポーツをやっちゃダメというわけではありません。何をやっても自分のスキルアップに繋がるから、夢以外のことでもやればいいです。やってみれば次のチャンスは巡ってきます。人に出会えば出会うほど、実績を積めば積むほど、目立つし、だんだん声をかけられるようになります。自分のやりたいことを探さなくてもオファーがだんだん来るターニングポイントがきっと訪ねます。
Amy Sherman、元沖縄県ALT、2006年~2008年
大きくなったら何になりたいですか?
子供の頃、大人にこの質問をよく聞かれました。6歳の時、靴の店を開きたいと答えました。新しい靴の匂いが好きでした。13歳の時、神経外科医になりたいとよく言いました。しかし、20代を迎えると将来のキャリアに対してだんだん不安になってきました。
教師になると想像もしなかったけれども、JETプログラムに参加して教育に興味が湧きました。いつもハイテンションで迎えてくれた保育園生と学校以外でばったり会ったら、大きな声で「エイミ先生」と叫んでくれました。生徒たちのおかげで、ALTという仕事は特別だと気付きました。日常生活の中で国際交流と異文化コミュニケーションの機会を作ることができました。英単語と文法だけではなく、いろいろな人々を受け入れるように生徒に指導することが出来ました。その代りに、生徒が学んだことほど、私もJET経験から学びました。
帰国するときが近づいてきたら、さまざまなキャリア進路を考えました。キャリアはまだ明確ではないから、とりあえず就活のプランが必要だと気付きました。仕事の内容より、働いてみたい会社を探しました。キャリアアップができ、私の興味とスキルに合う会社を考えて、社員から会社が高く評価されているのか確かめました。私の条件に応じる会社でしたら、第一歩として仕事の種類に関係なく応募しようと思いました。
しかし、仕事を応募する前に、別の進路が現れ、そちらの方に応募しました。地元の公立学校と提携している大学では、新しい教師の育成と研修に取り組んでいました。教師として働きながら、夜学校に通って教育修士をただで修得できるプログラムでした。アメリカで大学はとても高くて教育免許を取るために大学に戻ろうという選択肢を考えたことがありませんでした。外国語としての英語(ESOL)の教師としてプログラムの受講を認められた後、JET経験に係わる仕事ができるように財政支援をいただける私は本当に恵まれていると思いました。
ESOL教師の仕事を始めてしばらく経ったら教え方がJETの頃と違ってきたと思いました。授業計画や教え方や生徒の学習状況を評価する方法などの知識を身に付け、教師として成長したと感じました。テストに必要な英語を教えると同時に、生活に必要な英語を教えるコツを掴み、生徒はテストで点数を取るとともにコミュニケーション力を上げることができるようになりました。アメリカで英語を外国語として勉強している私の生徒は英語の環境で勉強したりコミュニケーションを図ったりすることには苦労しているから、無性に英語を学びたがっています。周囲で話されている英語を一生懸命理解しようとしている子供たちにとってESOL教師の大切さが分かりました。
ESOLの教師として働きながら、キャリアを築く機会を探し続けています。生涯学習の大切さを認め、雇用主の支援をいただき、時間が許す限り講座を受けました。正式な教育を受け続けながら、専門的能力開発の機会もいつも探しています。3年連続で夏休みに家で過ごす代わりにSino-American Bridge for Education and Health (SABEH)というプログラムを通して、中国で英語の先生を指導しています。多くの組織が教師向けの助成金を提供していることを発見しました。合格より落ちることが多かったのですが、なんとか助成金をいただいて、生徒の地元へ行って自分の目で生徒の国と言語について学ぶことができました。このような機会を見つけるのは時間がかかりますが、JETプログラムで経験した異文化学習を改めて味わえるのはかけがえのないものだと思います。
一番最近のキャリアアップを話すと、新しい学校へ転職して、小学校でESOLの主任になりました。職歴のさまざまな経験が成長のもとになったと思います。機会がいつ来るかは誰にもわからないので、柔軟に新しい経験を受け入れるということをアドバイスします。今のキャリアは子供の頃に憧れていた靴の店に繋がらなさそうですが、次に来る機会を楽しみにしています。
プロフィール
Amy Sherman氏は2006年~2008年に沖縄の北部で20校以上の小・中学校でALTとして勤めています。帰国後、外国語としての英語(ESOL)教育修士を修得し、中国で英語の先生のために夏の研修プログラムをしています。現在、ワシントンD.C.と違くにあるヴァージニア州のアーリントン市でESOL教師の主任として勤めています。
リンドジー・ブラック、元徳島県ALT、2013年~2014
たった4年前のことです。四国にある徳島県に航空機(すごい小型のものだった!)で降り立って、ALTの任用先である牟岐町に車で向かいました。JTE(日本人英語教師)がたまに沿道の神社や木々に隠れるサルを指でさしたりしていましたが、徳島市の市街地から四国の沿岸を走る3時間の旅(日本語を覚えるには、十分でしょ?)はほぼ静寂に包まれていました。
静寂は悪いことでも、良いことでもありません。しかし、その深い静寂は、牟岐町で過ごした1年間を形作ってくれました。確かに日常生活が困らない程度の日本語を覚えましたが(手振りで話すことも多かったけれど)、この小さな牟岐町には流暢な英語をしゃべる人は一人もいませんでした。授業の時や、徳島市内にほかのJET参加者と遊びに行った時、Skypeで家族と話す時ぐらいはおしゃべりをしていましたが、それ以外の時は私がまるで口をきけない人のようでした。こんなすごい経験は初めてでした。
田んぼに囲まれながら瞑想にふけ、宇宙と一つになる。。。私がJETプログラムに応募したときに希望していた雄大な「いなか」の魅力は、4日間住んでみると弱まってきました。それに、その底知らぬ静寂は私の心を削っていきました。毎日作文を書くようになったのは、ものを書くことが好きだったからではなく、人間がどうしても感じる寂しさに対処するためでした。そして、その美しく、素晴らしく、やりがいのある一年間が終わると、私は書くことが大好きになりました。
JETプログラムで再任用を希望しないことを決め、母国でどうやって文筆業に従事するか真剣に考え始めました。色々調べたところ、創造的な仕事をし、ライターとして生活する夢を叶えるには、インターネットを利用できる良い環境があればいいです。
求人情報ウェブページで、私が得意な社説の執筆者募集情報を集めたり、またライティング関連サイト(米国での求人ならMediaBistroとed2010がおすすめ!)ではライターの求人情報を探したりしました。また、就職活動に役立つ作文集を作るため、食事と旅行をテーマにしたブログを始めました。「まだライターになっていない私は、『作品のサンプルを見せてくれ』と言われたらどうする?」と、ライター就活で困っている皆様、とにかく沢山のブログを書いてください。
やっとJETの任期が終わり、フルタイムでライティングとソーシャルメディア関係の仕事をするため、思い切ってニューヨーク市に引っ越ししてみました(まあ、ブルックリン区だけですけど)。それからVaynerMediaや Condé Nast, Bustle, e.l.f. Cosmetics.などがクライアントになったことがあり、とても恵まれていると感じています。現在また飛躍的な決断をするところで、マーケティング・エージェンシーを立ち上げようとしています。数えきれないほど多くのところに仕事の依頼をお願いしたり(また断られたり)してきましたが、やっと毎日新しいものを作ることに挑戦できる楽しい生活を送っています。
JET終了後にライターを憧れる皆さん、ちょっと静かになってみて、静寂に満ちている「あなたの牟岐町」(そして、Wifiも!)を探し求め、どんどん書き始めましょう!
プロフィール
リンドジー・ブラックは企業家でもあり、女優でもあります。JETプログラムでは、2013年から2014年まで徳島県牟岐(むぎ)町(ちょう)でALTを務めました。テキサス州生まれのリンドジーはカリフォルニア州立大学デビスキャンパスで歴史の学士号をとり、現在ニューヨークとロスアンゼルスを行き来しながら生活しています。中東地方のニュース報道から屋上広告版のコピーライティングまで、ライターとしての経験は豊富で、「ローズ・ゴールド・クリエティブ」というマーケティング・エージェンシーを立ち上げています。
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