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2017年JET Streams夏号

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2017年JET Streams夏号

 
「JETプログラム動画コンテスト2017」応募受付中!!

JETプログラム事業部、CLAIR

昨年の好評を受けて、CLAIRでは今年度も引き続き、現役及び元JET参加者の目線から発掘した日本の地域の魅力を世界に発信する「JETプログラム動画コンテスト2017」を開催します。

昨年のコンテストでは、各所から大きな反響をいただいており、「春夏編」「秋冬編」合わせて、107作品もの応募がありました。昨年の動画は以下のリンクでご覧いただけます。

www.youtube.com/channel/UC_m9J6pfcTClG5b4zRCguIw

最優秀賞には10万円相当の旅券を贈呈します!

応募の締め切りは、2017年11月30日(木)です。

応募は以下のリンクから受付けています。

www.jetprogramme.org/en/info/jvc2017app/

 
長野県版グローバルキャリアフェア開催~長野県の海外人材活用に向けて~

早川真由美、長野県県民文化部国際課、主事

国際感覚を身につけたJETプログラム参加者への就職支援事業の一環として自治体国際化協会が実施しているグローバルキャリアフェアの長野県版を長野県と長野県国際化協会が地方として初めて開催しました。

開会式の様子

今回は、長野県の独自の取り組みとして地元の信州大学と連携・協力し、JETプログラム参加者のみならず県内の学校で学ぶ留学生・卒業生も対象としました。

長野県の現状

長野県内の高等教育機関には平成28年5月時点で約1,400人(日本学生支援機構調べ)の留学生が在籍しており、その数は年々増加傾向にあります。長野県では『グローバルNAGANO戦略プラン』を2016年10月に策定し、グローバル人材の活用や活躍の場の支援策など海外活力の取り込みを図っています。現状では、留学生等は県内企業を知る機会や折衝する機会がないため貴重なグローバル人材の多くが帰国するか東京等大都市で就職しています。こうした状況を踏まえ、高度な知識やスキルを有する外国籍のグローバル人材を、県の産業や教育の発展及び地域の活性化に寄与する「人財」として長野県内で確保することを目的にグローバル人材を求める企業とグローバル人材とのマッチングの場を提供するグローバルキャリアフェアを長野県で初めて開催することとしました。

Global Career Fair in NAGANO 2017の概要

2017年5月20日(土)13:30~17:00に長野市内の信州科学技術総合振興センター(信州大学工学部内)において、Global Career Fair in NAGANO 2017(長野県版グローバルキャリアフェア)を開催しました。

企業ブースにおいて企業担当者から説明を聞く参加者

当フェアには、25社の企業と60名のJETプログラム参加者及び留学生等が参加し、参加者は熱心に企業の説明に聞き入っていました。JETプログラム参加者の中には、県外からお越しいただき時間ぎりぎりまで真剣に企業ブースを回る姿も印象的でした。

その他、当フェア会場内では長野県行政書士会に協力していただき就労や在留資格に関する相談コーナーや多文化共生くらしのサポーターによる相談コーナーも設け、企業や参加者からの相談に対応していただきました。

Global Career Fair in NAGANO 2017の評価

当日実施したアンケートでは、参加企業の90%が「満足」または「どちらかというと満足」、参加者の86%が「大変満足」または「満足」という回答を得ました。

こういったフェアの必要性についての問いには、「必要」または「どちらかといえば必要」と95%の企業が回答しました。

フェア満足度

企業 参加者
未回答: 10% やや不満: 14%
どちらかというと満足: 33% 大変満足: 36%
満足: 57% 満足: 50%

こういったフェアの必要性についての問いには、「必要」または「どちらかといえば必要」と95%の企業が回答しました。

その他の意見・回答としては、下記のとおりでした。 [参加企業]:

  • 良い人材が多かった。
  • ターゲットとしている地域の参加者がいた。
  • たくさんの人材に出会えた。

参加者:

  • 非常に素晴らしい企業が多く、参加して良かった。
  • 就職先の選択の視野を広げる良い機会だった。
  • いい時間を過ごし、多くを学び何らかのつながりができた。
  • 今まで東京や大阪など大都市でしかこういうイベントがなかったので今回の企画はとても良い。

など参加企業及び参加者双方から高評価をいただき、一定の手ごたえを感じることができました。

また、会場に入る際の参加者はとても緊張した面持ちで企業ブースへ足を運んでいましたが、会場を出る際には笑顔になり感謝をして帰る参加者も多くいました。

このフェアをきっかけに県内での就職につながっていくことを期待しています。

地方でのグローバルキャリアフェアの必要性

当日のアンケートでは、海外人材の受け入れについてどう考えているかという問いに「必要」または「どちらかといえば必要」と90%の企業が回答しました。約半数は専門的な知識・技術を持つ高度人材の受け入れが必要とし、約3割が高度人材と単純労働に就労する人材が必要と回答しています。その背景としては事業拡大、グローバル展開、人材不足等です。急速な人口減少により労働力が減少する中、地域の産業を支えるにはグローバル人材の確保が急務となっています。また、グローバル化の進展により海外へ進出する企業が増加する中、企業としては進出先の国の実情に詳しいグローバル人材を採用したいと思っています。しかし、そういった人材の確保の手立てが分からなく良い人材が採用できないなど、海外人材と企業とのマッチング支援を多くの企業が求めています。

一方、留学生側は長野県に求める就職支援策として、外国人専用の求人サイトが最も多く、次いで県内での合同企業説明会が半数以上でした。現在は、留学生等外国人材に関する合同就職説明会について東京及び大阪等大都市がメインとなっていますが、地方でのグローバルキャリアフェア開催が地元企業及び留学生等にとって必要性が高いということが分かりました。

また、今回のフェアでは留学生1年生から及びJETプログラム1年目の参加者など対象の幅を広げ、早くから県内企業を知っていただくきっかけづくりをしました。早くからマッチングの場を設けることにより就職先の視野を広げることができると確信しました。

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企業訪問シートに記入する参加者

今後について

このフェアに参加した企業へのフォローアップ調査をしながら、このフェアを通じて得た参加企業や参加者の意見、さらに県内企業・学校・団体・県等が連携・協力して、多くの企業ニーズやJETプログラム参加者及び留学生等の要望などを把握し、双方がマッチングできる場の提供や情報共有できる場が必要ではないかと考えています。

こうした就職支援を通じて、県内で高度な知識を学んだ留学生等グローバル人材が県外若しくは国外へ流出することなく、県内においてその人材が持っている能力や知識を発揮できる場や活躍できる場を構築していくことが重要です。

※この記事はクレアフォラムの「現場レポート」のために執筆され、334号で発行されました。

 
 
 
ロッキー山脈地方で元JET参加者のキャリアカウンセリング

アダム H。リッブソン、元神戸市ALT、2004年~2007年及びエミリー・フランク、元北海道ALT、1993年~1996年、JETAA NSWイベントコーディネーター

JETAA Rocky Mountain支部のロゴ

来日したときより、帰国してから苦労するJET参加者もいます。田舎(又は都会)での日本生活は最初は孤立している気持ちになりがちですが、学校とコミュニティとを繋ぐ努力をして、配属先が第二のふるさとと思えるようになるJET参加者がほとんどです。しかし、帰国してから突然逆カルチャーショックを受けてしまいます。更に、職業適性及びJET参加者としての経験が将来のキャリアにうまく繋がる方法を探る必要があります。

JETAA Rocky Mountain支部はカウンセラーとして勤めている元JET参加者のエミリ・フランク氏と協力し、元JET参加者のキャリアサポート活動を実施しています。アメリカの都会で活躍されている支部でしたら、JET参加者の就活やネットワーキングのためキャリアセミナーや名刺交換イベントなどを企画しますが、JETAA Rocky Mountain支部管轄区域はコロラド、ニューメキシコ、ユタ、ワイオミングの4州、約100万平方キロに渡ります。この距離と人数の関係でキャリアサポートやネットワーキングは非常に難しいです。

エミリ氏が帰国したばかりのJET参加者のためのマンツーマンや電話、スカイプでのキャリアカウンセリングをJETAA Rocky Mountain支部の役員会に提案したとき、元JET参加者にとって就活のいい支援になると思いました。そして、CLAIRのニューヨーク事務所の支援を得ることでキャリアカウンセリングを実現することができました。

エミリ氏は北海道で3年間(1993~1996)ALTとして働いていたので、JET終了後の就活をよくご存知です。「JETライフ」が好きでしたが、将来的には教育と違う分野で働きたいと思っていました。帰国後、いくつかの職業に挑戦しました。弁護士事務所の翻訳、コロラド州で日本人学生の交換留学コーディネーター、料理学校の学生、そして本屋の店員に挑戦しましたが、自分のやりたいことを見つけることができなかったようです。キャリアカウンセラーの仕事に興味を持つようになったきっかけは、エミリ氏自身がキャリアカウンセラーと相談したときだったそうです。

参加した人からエミリ氏が高く評価され、JETAA Rocky Mountain支部の第一キャリアカウンセリング活動は大成功でした。JETのことをよくご存知で、丁寧な指導ができる方がいるというのは非常に有難いそうです。相談しにきたJET参加者は面談の途中で「あ、JETのことは説明しなくても大丈夫ですよね!」とよく言い出します、とエミリ氏が笑いながら話していました。

「共通点が多い皆様と会えて楽しかったです。多様で優秀な方ばかりでした。自分が帰国した直後の時期を思い出すことができてとても良かったです。JET終了後の就活を体験したことがあるので、共感することができました。」とエミリ氏が話していました。エミリ氏によると、多くの元JET参加者は教育やNPO法人、難民に関係のあるキャリアまで求めることが多いそうです。JET参加者は利他主義派のようで、そのような考え方を持っている人と一緒に働くことができたら嬉しいです、と話していました。

これからも元JET参加者のキャリア支援のためJETAA Rocky Mountain支部とエミリ氏は協力し続けます。また長距離にも渡るHeartland支部にもサービスを広げることも予定しています。この活動を始めたばかりですが、より多くのJET参加者が自分のキャリアを見つけられるように支援したいと望んでいます。エミリ氏は自分のキャリアを更にステップアップし、自立する予定です。詳しくは本人のウェブサイトをご覧ください。この記事のことを伝えていただけますと、元JET参加者の割引が付きます。

www.denvercareercatalyst.com


プロフィール
アダム・リズボンはJETAA Rocky Mountain支部の会長として勤め、コロラド大学ボルダー校で日本語学と韓国語学の図書館員として勤めています。JET終了後、就活に苦労しましたが、ボランティアとして兵庫AJETの図書館員をしたときの楽しさを思い出して、図書館員になりたいと気づきました。今現在、アダムさんは日本語で読み書きができるように生徒を支援しています。そして、JET参加者にコロラド州のクラフトビールと山の景色の魅力を紹介しています。

frankエミリ・フランクはスミス大学で東アジア学を専攻しました。北海道虻田町で3年間JET参加者として活躍した後、カウンセリング・心理学の修士を取得しました。2006年にデンバー市立大学のキャリアカウンセリングオフィスでインターンをし、現職に至ります。社会的公正を推奨するフランクさんは、フロリダ州のオーランド市で行われた全米キャリア開発協会の年次大会でトランス・ジェンダーに優しいキャリアカウンセリングの環境づくりについてプレゼンしました。

 
 
 
 
JETAA トリニダード・トバゴ支部~第1章:成長

アナスタシア・ラムジャグ、神戸市ALT、2011年~2013年、JETAA TT会員

 JETAAトリニダード・トバゴ支部(JETAATT)

JETAAトリニダード・トバゴ支部(JETAATT)

平成28年11月6日、JETAAトリニダード・トバゴ支部(JETAATT)のローレンス・イ二ス会長がJETAA国際会議に招かれ、JETAATTの発足を宣言したことから、晴れてJETAA-Iの17ヶ国目の参加国となりました。2013年から非公式でありながらJETAA支部として努力を惜しまずJETプログラムの認知度向上や日本文化に対する理解深化に取り組んできたJETAATTの会員にとって、記念すべき出来事でした。支部が発足したころは、活動は帰国者のためのレセプションや新規JET参加者の送別会などいった小規模のイベントにとどまっていましたが、西インド諸島大学(セント・オーガスティーンキャンパス)や日本大使館と連携し、パネルディスカッションやJETプログラムの説明会等の中規模イベントも開催しはじめ、活動が広がってきました。

トリニダード・トバゴがJETプログラムの参加国となった2004年から14年間が経ちました今、トリニダード・トバゴから100人以上の青年をプログラムに送っています。なかには、JET終了後に日本に永住している方もいると聞いています。最初は4人のトリニダード・トバゴ出身者しかJETプログラムの選考を通らなかったですが、昨年には26人の青年が参加者になり、今までで一番多い数になりました。

すばらしい・サタデーのチラシ

平成29年7月8日(土)に、日本大使館の協力の下、「すばらしい・サタデー」という祭りを西インド諸島大学の語学学習センターで開催しました。

実行委員会の皆さんが楽しく自撮り

アクティビティが盛りだくさんのこのイベントでは、イベントの実行委員会の努力が実り、80人以上の方に会場へ足を運んでもらい、大成功のうちに終わりました。さほど多い人数とは思わないかもしれませんが、支部の活動が評価され、さらにJETプログラムに対する関心が高まっていることを証明していると思います。

祭りでは、着付け体験及びフォトブース、折り紙体験教室、七夕をテーマにしたひらがな・カタカナ教室、コスプレ・ショー、JETプログラムの説明会、大使館主催の映画上映会の他、様々なゲームやJETAA会員による写真展示もあり、やきとりやポッキー、抹茶なども販売されていました。

Laurence Inniss 会長がやきとりと抹茶の販売を監督している様子

過去の参加者は主に元JET参加者等でしたが、先日開催されたJETプログラム説明会の会場には、大学生だけでなく、高校生や子供、社会人等にもお越しいただき、100人分の座席がある会場は満席の状態でした。

「一日の仕事の流れは?」、「日本の治安はどう?」、「日本の子どもを教えるのはどんなものか?」など、出席者の皆さんが気になった様子で日本での生活について細かい質問をしたりして、元JET参加者の経験談に聞き入りました。

それに応えようと、説明会に参加した元JET参加者がカルチャーショックやJETでの日常生活、日本の交通機関や医療機関などについて語り、最後に、人生を変えられるチャンスを逃さないようということで、ぜひJETプログラムに応募するように促し、応募するプロセスについてもアドバイスをしました。

二国間の関係を強化するなか、JETAATTは常に文化交流や啓発活動ができるチャンスを探しています。正式設立されて2年の、歴史が浅い支部ですが、その設立に係わることができて本当に光栄に思っています。今後も、元JET同士で協力しながら、その他関係団体と連携し、様々な共同事業に取り組み、JETプログラムの知名度向上に励んでまいりたいと思います。

プロフィール
トリニダードのエル・ドラード出身。2011-2013神戸市ALTとしてJETに参加しました。言語に関する知識が豊富で、大学でスペイン語、大学院で翻訳・通訳を専攻しました。現在、西インド諸島大学(セント・オーガスティーンキャンパス)で日本語を教えながら、在トリニダードアルゼンチン共和国大使館で商業・領事・文化に関する業務を担当しています。
 
オーストラリアのJETプログラム30周年記念事業

イーデン・ロー、元福島県いわき市ALT、 2010年~2011年、JETAAニューサウスウェールズ支部会長

JETプログラムの30周年を祝う催しがオーストラリアの日本大使館で、JETAAキャンベラを共同主催者として開かれました。この催しでは毎年恒例のキャンベラ出身の新規JET参加者送別会と併せて、JETの参加者の実績を祝って開催されました。

キャンベラからの2017年JET参加者がスピーチをしている様子

公式なイベントでしたので、様々な代表による挨拶がありました。まず、在オーストラリア日本大使草賀純男閣下が二国間の優良関係に大きく寄与したJETプログラム及びJET参加者の活動を称え、2011年東日本大震災後の募金活動やその他ボランティア活動、地域コミュニティとの交流に積極的に取り組む現役JET参加者の活動も評価しました。その後、JETAAキャンベラ支部Michael Anzileiro会長が来日を控えていた新規JET参加者に挨拶し、世界中に広がる数万人にも及ぶ元JETのネットワークについて語りました。最後に日本との交流を継続する元JETも含む全JETに激励の言葉を送りました。

最後に、CLAIRシドニー事務所の上坊勝則所長がある面白い逸話を交えて乾杯挨拶しました。なんと、30年前に、JETプログラム初代の参加者に英語を教わったそうです。これも、JETプログラムの長い歴史を物語っています。

キャンベラからのJET参加者が日本語で「自己紹介」を行いました。数人は即興で完璧な日本語を披露しました。もしオーストラリア発音の日本語を聞きたいなら、今年のキャンベラからのJETと話してみてください。

左:JETAAキャンベラ支部Michael Anziliero会長、右:草賀大使

JETが集まる会合はどこでもそうですが、旧友が再会し思い出話で盛り上がり、新しい出会いもあり、自分のネットワークが広がるものです。

様々なアイディアについて議論し合うことができ、関心を持たなくなった昔の趣味等が再び面白く感じることから、他のJET参加者と顔をあわせて話せることは、自分のモチベーションを上げ、刺激を与えてくれる良い機会です。

このイベントでは、帰国したばかりの元JET参加者に就職のアドバイスをしたり、今まで元JET参加者の活動にあまり関わらなかった方と話したり、そして、JETAAの活動に対してフィードバックをいただいたりすることができました(嬉しいことに、主にポジティブなフィードバックでした)。

JETの30周年を祝う各支部の催しや、メインイベントとして日本大使館でのイベントなど、2016年から2017年はオーストラリアのJETAAにとって、とても思い入れのある年になりました。そして、JETAAキャンベラ、日本大使館の皆様、このようなイベントをありがとうございました!

プロフィール
オーストラリア、シドニーのヘイリングから来日したイーデンは2010年にJETプログラムに参加して、いわき市でALTとして働き、直接東北の方の寛大さと無私に触れました。彼は今現在JETAANSWの会長、またJETAA-I理事会のオーストラリア代表を担い、JETAA-IのウェブサイトとSNSを運営しています。また彼は’Life After JET’といいポッドキャストを作成していて、いつもボランティアを募集しています。

現在、非営利団体や豪州政府委託のe-Healthポータルサイト開発及びデザインに係わっています。ポータルサイトでは心身の健康に関する情報を発信するほか、将来の公衆衛生戦略に活用できる医療研究データを蓄積する機能もしています。恥ずかしながら、日本語は不得意です。

 
 
JETコミュニティ:地方の広報にとって貴重な人材

ルイーズ デンディ、神戸市 ALT、2011年~2013年、神戸市役所CIR、2013年~2015年、JETAA西日本支部代表

日本及び自分が住んでいる地域に熱心な人をお探しならJETコミュニティより他はありません。だからこそ、2016年に発足したKOBE PR大使を募集したとき、最初に声をかけたのは神戸市の100人以上のJET参加者でした。

神戸市広報担当者として、神戸での観光やビジネス、生活の魅力を外国人目線で世界へ発信しています。

2017年度KOBE PR大使の任命式

公式SNSを立ち上げたとき、神戸のことが好きな人やSNSで繋がりの多い人、同じ考えを持っている人を集めて新しいコミュニティを作れば、神戸のPRにつながるかもしれない、と思いつきました。さらに、在住外国人と自治体の間のギャップ及び市内の外国人コミュニティの間のギャップを埋めることもできるかもしれないと思いました。

そのアイディアから生まれたのがKOBE PR大使です。初年度、10か国・地域から来た19人の神戸市在住外国人をKOBE PR大使として任命しました。PR大使はボランティアとしてSNSなどを通じて、日常生活で発見した神戸の魅力や美しさを発信しています。神戸のファンが彼らの投稿を簡単にアクセスできるようにKOBE PR大使の公式フェイススブックやツイッターにも載せています。

神戸の有馬で芸者と伝統ゲームをしているKOBE PR大使、JET参加者(ALT)Sam Ramdani

神戸の有馬で芸者と伝統ゲームをしているKOBE PR大使、JET参加者(ALT)Sam Ramdani

KOBE PR大使は任命される一年の間に、神戸のことをよりよく知り、PRするために神戸の主要観光所を巡るツアーに参加します。初年度、神戸港で特別クルージング、神戸市立須磨海浜水族館の裏側を覗くツアー、東灘スイーツめぐり(40件以上のお菓子屋を訪ねる毎年開催のイベント)、有馬で芸者と伝統おもちゃの遊びという4つのツアーに参加しました。

KOBE PR大使になる条件は神戸市に勤務・在住・在学すること、英語が話せること、そして若者であることなので、JET参加者にぴったりだと思い、神戸のJETコミュニティに声をかけました。初年度に5人のJET参加者が任命され、2年目には8人に増えました。KOBE PR大使のJET参加者(そして元JET参加者)はJET参加者らしく、元気に、そしてやる気満々で参加しています。

神戸でぶどう狩り

神戸でぶどう狩り

初年度に成功を収め、次年の2017年にKOBE PR大使を16か国25人まで増やしました。多言語のできるKOBE PR大使は、英語以外の言語でも投稿するよう促しています。そして、今年度からツアー数を4つから5つに増やして、KOBE PR大使のブログやツアーレポート、おススメスポットの地図などを掲載している新しいウェブサイト

www.kobe-pra.com)も作成しました。

このプロジェクトはお互いに有利な結果を生み出すウィンウィンなプロジェクトになっています。自治体にとって低コストで外国人視線からの本格的なPRができるメリットがあります。大使にとってのメリットはユニークな体験や繋がりができます。その上に、KOBE PR大使は頼りになる外国人団体となり、神戸市の広報以外の部局でも活躍してもらっています。例えば、神戸市で撮影されたドラマや映画のエキストラとして出演したり、外国人対象のPRビデオなどについての意見を提示したり、ハーベスト神戸というアーバン・アグリツーリズムを推進するプロジェクトの顔となったりしてもらっています。(harvestkobe.jp/en.php)

これからも日本の市町村は広報のため在住外国人と協力し続ければと思います。特にJETコミュニティの熱心さとモチベーションを生かしていただきたいです。

詳しくはKOBE PRアンバサダーのウェブサイトを見てください。 www.kobe-pra.com

プロフィール
イギリスのノーサンプトン出身です。2010年夏、留学で初めて来日し、神戸のことが好きになり、2011年に再びALTとして戻りました。2013年にCIRに転職しました。2015年4月から神戸市広報専門官になり、SNSやビデオ、印刷物、オンライン、KOBE PRアンバサダーを通して、外国人対象のPRを担当しています。2017年4月からJETAA西日本の会長としても就任しました。

 
 
2人の元JET参加者のバラエティに富んだ道のり

オレリー・ノエル、元茨城県CIR、2010年~2013年、フランスJETAA会長

現在に至るまでフランスからたくさんの人がJETプログラムに参加していますが、それぞれが歩む道のりは全く異なるものです。JET参加者の多く(ほとんど!)は大学で日本語や日本文化を学んだという共通点を有しますが、彼らが自治体に配属されてから歩む道のりは本当にさまざまです。

まずは、2011年から2016年まで三朝町(鳥取県)に赴任した元CIRであるアントニー・リエヴェンをご紹介します。アントニーはパリ第7大学で日本語を勉強したのち、日本映画に強い関心を持っていたことがきっかけとなりJETプログラムに参加しました。三朝町は人口7000人弱の温泉のまちで、1990年からは三朝町と同じように温泉地として有名なラマルー・レ・バン町(フランス・エロー県)と姉妹提携を結んでいます。三朝町は、1993年からフランスCIRを受け入れています。

アントニーは、2011年に赴任するまで三朝町を知りませんでした。赴任後すぐに町内にJRの駅がなく、電車に乗るためには隣町に行かなければならないことに驚きました。また、三朝町がパリの約2倍の広さを有することにとても驚きました。とはいえ、三朝町の大部分は山林が占めています。 三朝町は1950年代初めからフランスと交流し始めました。三朝温泉は世界屈指のラジウム温泉であり、自然治癒力を高めるという効能を持っていることから、その放射性元素ラジウムを発見したフランス人科学者であるキュリー夫人を称えるために「キュリー祭」を創設しました。

三朝町での5年間の勤務におけるアントニーの代表的な業務は、ラマルー・レ・バン町に中学生で構成される友好交流団を毎年派遣する事業に引率担当として関わるものでした。このプロジェクトは業務量が多く責任の重い仕事でしたが、両町間の強い絆を実感するとても刺激的な業務でした。アントニーはまた、地域の人々の協力のもと2つの自主映画(54分の映画と26分の映画)を制作し、子どもの頃の夢を実現することができました。

この2つの作品を制作するには多くの労力を要し、完成するまでに3年の年月を要しました。さらにアントニーは映画の制作と並行して、全部で約50作品に及ぶ三朝町のプロモーションビデオを制作しました。

JETプログラムは、アントニーの日本に対する情熱と知識も相まって、三朝町の観光振興を促進させただけでなく、アントニーに忘れることができない経験をもたらしました。JETプログラム終了後、アントニーは三朝町に残りたいと思っていましたが、仕事の都合で現在は鳥取県内の別の地域で暮らしています。ウェブサイトやプログラムを制作する会社で働き、医療機器の研究開発に携わっています。

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映画撮影のため真剣にカメラを見つめるアントニー

アリス・ボナミは2011年から2016年まで京都府に5年間勤務し、アントニーと同様に忘れられない経験をしました。ボルドー出身のアリスは、ボルドー第3大学で二ヵ国語と特定の実務的能力を学ぶ「応用外国語コース(LEA:langues étrangères appliquées)」の学士課程で英語、日本語と国際交渉を学びました。そして九州大学の「Japan in Today’s World(JTW)」プログラムに1年間参加した後、ボルドーで修士課程を修了しました。京都府のCIRのポストは以前から存在していましたが、フランス人を採用したのは初めてのことでした。5年間の勤務において、彼女は通訳、翻訳、文化交流、セミナーなどの業務を担当し、さらにフランスの州とのパートナーシップ構築に大きく貢献しました。ここで特記すべきは、アリスが京都府とオクシタニ州との友好関係の構築に注いだ熱意と実行力でしょう。両州府間に多くの共通点があることも、このパートナーシップを構築するうえでの大きな後押しとなりました。例えば、地域に根差した農業が盛んであることや、沿岸地域であること、伝統と現代とが共存していること、文化豊かな地域であることなどです。

もっとも2015年6月の友好提携協定の締結までには4年の歳月を要しました。アリスの業務は日本の代表団の訪仏にまで及びました。また、アリスは双方間の協定書の翻訳から牡蠣の養殖場訪問に向けた専門的な翻訳まで担い、そして訪問時は現地のガイドやコーディネーターとして業務を円滑に進めるために奔走するなど多岐に渡る業務に携わり、大変有意義なものでした。フランス人JETは質の高い言語能力やコミュニケーション能力を有しており、日本の自治体が海外の自治体との友好交流協定を具体化するうえでなくてはならない存在です。

フランスの牡蠣養殖業者が久美浜町を訪問した際のアリスの通訳風景

フランスの牡蠣養殖業者が久美浜町を訪問した際のアリスの通訳風景

さらにアリスは、フランスの有名なシェフや京都の有名ホテル・旅館の幹部、スイスのホテルスクールの代表者などの通訳を担当する機会も得ました。アリスは京都府での任期終了後も、JETプログラムで得た経験を還元し続けるために京都に留まることを望んでいましたが、フランスを始めとするヨーロッパで日本料理や日本酒を通じて日本文化を広めるという、彼女にとっての新境地の仕事に1年間挑みました。彼女は現在、自転車競技短距離の日本ナショナルチームにおいて通訳者を務めており、2020年の東京オリンピックまで全ての世界選手権に同行する予定です。

フランス人JETは地方自治体に大きな付加価値をもたらします。

3つの言語を操り柔軟性と創造性を兼ね備えているフランス人JETは、文化面や経済面での交流を問わず、実施されるさまざまなプロジェクトにおいて大きな推進力となり新たな風を吹き込みます。JETプログラムを通してバラエティ豊かな業務に携り、老若男女問わずさまざまな地域住民と関わる中で多くの能力や知識を身につけ、日本とフランス間ひいては日本とヨーロッパ間をつなぐ一方で日本の自治体とその住民を結びつける役割も担っているのです。そして、そんな彼らの日本の伝統文化や現代文化に関する知識は、自治体にとって最大の強みとなるでしょう。

※この記事はクレアフォーラムの【JETからの手紙】のため執筆され、333号で発行されました。

profil-photoaurelie-noelプロフィール
フランス・ピカルディ地方出身。パリ第3大学でイタリア語を学び、パリ第7大学で日本語を学んだ後、東京の語学学校で3年間フランス語を教える。2010年から茨城県のCIRとして3年間勤務し、フランスJETをサポートするグループリーダーも務める。2016年からJETAAフランス会長に就任。危機管理マネージメントの修士号を取得し、現在は世界銀行でコンサルタントとして勤務。日本語と伝統行事をこよなく愛する。

 
 
JET参加者から元JETへ:改めて富士山に登ったような経験

アシュレイ・オニール、元兵庫県ALT、2010年~2013年、JETAAニューサウスウェールズ・イベントコーディネイター

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長谷川氏より提供。

日本で過ごした最後の一ヶ月、青森県から岡山県へ旅立ち、途中で富士山に登りました。私は運動不足で、普段登山もしないし、その上、訓練もしておらず、無理だと思いました。富士山の山頂で、下の風景を見ながら、3年のJETでの経験で私の人生はどれだけ変わったか、そしてどれほど学んで、経験してきたかを顧みました。今振り返ってみると、富士山に登ることはJETプログラムを終了することや逆カルチャーショックを受けた経験と似ています。登りのしんどさ、寒さ、空気の薄さ、そして暗さは全て覚悟していたが、下りの方が予想以上に辛かったです。

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アシュレイさんからの写真

オーストラリアに帰った途端、逆カルチャーショックを受けました。日本と違って、会話がすべて理解でき、運転手はもっとアグレシッブで、レストランでサービスが遅いです。電車に乗車中に人が電話で会話をすると気が張ります。一般的に、秩序が乱れているように感じました。

合わなかったのです。友達や家族は支えてくれなかったわけではないが、事情が変わりました。日本に行っている間世界が止まってくれたわけではありません。私は日本で大きく変わりました。もっと自発的になり、一人暮らしで得た自由が好きになりました。自信がつき、さらに外向的になりました。冒険者のように、新しいことに挑み新しい人と出会いたい気持ちになりました。しかし、戻ってから周りの人があの2013年に日本へ旅立った心細い、内向き、引きこもりの私として取り扱ったので、昔の自分に戻るような気分でした。

夜の遅い時間帯に一人で外出したり、交通機関に乗ることが怖くなりました。日本に住んでいた時に、友達や家族から聞いた悪い出来事から離れていたので良かったが、帰国すると「安全」という気持ちはありませんでした。私の新たなアイデンティティの大きな一部が失われました。

私が熱意を感じる仕事を探すのは、度々、死ぬほど辛かったです。ALTの仕事が大好きで情熱があったが、私に向いたキャリアではありません。大学の専攻に合った仕事は、公務員、外交、政治の仕事ですが、ほんとうにそれが私の希望なのでしょうか。帰国して2日後、私は里親制度の行政官としての仕事を始めました。それは精神的な負担の大きい仕事でした。5週間の契約は5ヶ月になりました。しかし、臨時職員から正職員になるチャンスが回ってくると、その仕事は私がしたいことではないということに気付きました。また、私は教育省の人事課で臨時職員に努めたが、しばらくして私の仕事では予想よりもたくさんのデータの入力作業があり、とても機械的な仕事でした。

9月、私はJETAANSWの30周年イベントに出席しました。懐かしい顔ぶれや私と同じく新しい人生に慣れるのに苦労している人と話せて良かったです。嫌いな仕事をしていた人もいたし、就職できていない人もいました。他の人たちと私たちが直面した課題について話すことで私はリラックスすることができました。逆カルチャーショックは私たち皆を苦しめたが、私たちは笑いながらお互いをサポートしあえました。多くの元JET参加者は今のキャリアを見つける前は、放心したような気持ちになったと言いました。彼らは、私をこのまま挑戦し続け、気を落とさないようにと励ましてくれました。私は他の元JET参加者と話せたことだけでなく、私に個人的な話をしてくれた人と出会えたことにとても感謝しています。

特に、ある元JETは私に国際学生活躍支援事業について話してくれました。その仕事は私にとって完璧で面白くて、彼女の話のあと、私の将来に関するすべてのことが明るくワクワクするものになっていました。私はそれこそ私のやりたいことだ、と思いました。そして再び、私はあらゆるところに仕事を求めて行きはじめましたが、誰1人返事をくれませんでした。今まで以上に自分が無力に思えました。

最終的に私は9月に話をした元JETに連絡を取りました。私はいかに自分が就職活動において運がないかを話しました。私たちは会うことにしました。現場を経験した人からアドバイスをもらうことは驚くべき程に役に立ちました。彼女は私が応募した職においてどのスキルが重要であるかを教えてくれました。彼女の手助けによって私のCV(職務経歴書)はよりよいものとなりました。また私達は雇用過程や仕事に対する責任、大学の国際学部などの他の可能性について話し合いました。

その週は電話での面接、それから個人面接、そして不合格通知がありました。

JETが終わってから半年以上が経ちました。全ての申し込みがもっと厳しくなりました。私が何日、何週間もかけて用意した申し込みに対して返事がなかったり、私を価値のないもののように評価されていることに対してひどいと思い始めました。惨めでした。

次に、探す範囲を広げてみました。とにかく職に就きたかったです。

上半期にJETAANSWの年次会議に出席し、二人のうちの一人のイベント・コーディネーターを担いました。元JET達や日本のコミュニティにいる人と一緒に過ごす時間が大好きでした。暇な時間でイベントのプラニングに注力し、他の帰国者と一緒に働けることに関して楽しみを感じました。

ある日、数日前にCVを提出したところからメールが届きました。電話で企業と話をし、その仕事は完璧だと思いました。次に直接面接をしようと言われました。本当はわくわくしたいところだったが、自分の過去の経験から期待はもうしない方がいいと思いました。

面接はうまく進んだのです。たくさんの人に会い、上級住居補佐を担当しているスタッフとキャンパスツアーに参加しました。きっと私よりも優れた人材を見つけるだろうと言い聞かせ希望が膨らまないようにしました。翌日面接を行ってくれたことに対する感謝のメールを送りました。返ってきたメールには、あなたに会えて本当に良かった、また連絡しますと書いてあり、音沙汰がない日々が続きました。

ある日、彼らからのメールでその沈黙は破られました。その親切なメールには、まだ応募者について話しあっていること、それから連絡を待っていることに対しての感謝の言葉が並んでいました。それから、所長から直接、仕事のオファーのメールが届きました。

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アレックス・フリックからの写真

ついに、希望の場所で仕事を得ることができました。ついに、私の中の価値を見出してくれる人がいました!ついに、私は無力だという気持ちから逃れられました。私はついに残りの人生を築き始めることができました。

これからの帰国者へのアドバイスを述べたいです。一番近くのJETAAに参加すること。彼らは他の元JETにつなげてくれる、そしてイベントを開催し、日本への繋がりを持たせ続けてくれます。JETを経験した者より、JETの心が分かる者はいません。

富士山を登るごとく道が険しい、時々将来設計ができないことがあります。帰国後、慣れるのに、自分と周辺にいる人に時間を与えましょう。不安を感じても大丈夫。これは必要で大きな変化で、誰かに助けを求め、近くにいる他の帰国者と話をしましょう。きっと考えているより長くかかるけれど、最後には自分の目的地にたどり着けるから我慢して、自分のゴールを諦めないで。最後には大変な道のりとそれを耐えたことに意味があるからです。

 
 
芭蕉の隣に~JETプログラムから作家としてのキャリアへ~

ソニア・サイケイリー、元宮城県塩釜市ALT、2007年~2008年

芭蕉とソニア

芭蕉とソニア

2007年に私はいわば芭蕉と出会いました。

私は列車から降りて、松島の観光客の群衆を通り抜けました。数週間前、私は、松島からさほど離れていない塩釜市で外国語指導教授(ALT)として仕事をするため、カナダから宮城県に来ました。カナダのオタワ市での生活を離れることは決して簡単な決断ではなかったが2003年に父が亡くなってから、海外で英語を教えることについてよく考えたりしました。最初は悲しみで心をかき乱されましたが、少しずつ時間が心を癒してくれました。病気を抱えた父を介護した日々で、私は人生の短さを実感しました。ほぼ10年間同じ仕事をしていて、安定した生活を送っていましたが、何かが欠けていると思いました。結局、JETプログラムの申請書に記入し、応募することにしたのは、何かに挑戦してみたかったからです。

その時、生きていくために普通の仕事をしましたが、私の本当の夢は作家になることでした。子供の頃から詩や短編小説を書いていて、また大学卒業後、本格的に夢を追いかけ始め、出版社に自分が執筆した作品を送りました。何度も不採用となったものの、私は執筆を続け、夢を見続け、期待を持ち続けました。それから、春には桜が咲くように、いくつかの原稿が出版されることになり、書き続けていく自信がつきました。作家としては、どんなに拒絶されても、挑戦し続けるべきです。新しい言語を学んだり、新しい文化を経験したりするときの困難と同じようです。最初は落ち込むこともあるかもしれませんが、諦めないことが大事です。

日本の文化は私にとって本当に魅力的なものだったのです。桜をはじめ、歌舞伎、温泉や茶室といった別世界に浸り、多くのインスピレーションを受けました。そしてもちろん、日本の俳句名人である松尾芭蕉からも多くのものを得ました。

牛タンを食べる様子

牛タンを食べる様子

私はいつか自分が動物の舌を食べるなんて夢にも思わなかったのですが、宮城の名物ですし、色々挑戦してみようと思っていたので、結局牛タンに挑戦してみました。その結果、牛タンが好きになり、その日松島でも食べました。それから木造の人形屋をはじめ、美しい庭園やお寺など松島の名所を巡りました。その時、なんと芭蕉の等身大パネルを見つけました。私は彼の隣のベンチに座って、写真を撮ってもらいました。回りからも「カチャ」、「カチャ」とカメラのシャッターが聞こえました。それを見ている私が突然、詩人がかわいそうだと思い込んで、私も熱狂の渦へと巻き込まれてしまったと感じ、頭を下げました。

その後、芭蕉自身が何百年も前に立ち上がって祈っていたと想像できるような、長くて赤い橋に行って、そこでやっと静けさを見つけました。彼は周りのさわがしさについてどう思ったのでしょうか?それを受け入れたか、あるいは森の中で慰めを求めたのでしょうか?この橋で松島に関する、あの有名な俳句を詠んだのでしょうか?私は日本を旅行する時に必ず持ち歩いていたノートを取り出し、空にカモメが浮かび、柱に波が打ち寄せる中ペンを執りました。

日本にいる時はいつでもどこでも書きました。橋の上。温泉を囲んでいる岩の上。神社のベンチで。列車の中。フェリーの上。寿司屋で。夜遅くアパートの中。日本の短いエピソードを詩の形で書いてみました。日本では、時間をかけても自分の文化を私に教えたいと思っていた素敵な人に出会いました。三味線や太鼓の演奏会に行って、茶道や地元の地域イベントに参加したりしましたが、あらゆる経験の後に、自分の書き物で興味をそそる人物がいる世界を創造しました。

新しい詩集A Samurai's Pink House(「侍のピンクの家」)を作成するきっかけとなった家

新しい詩集A Samurai’s Pink House(「侍のピンクの家」)を作成するきっかけとなった家

私のアパートの向こう側には、古いピンクの家がありました。その場所の謎に魅了されたので時々夜中に目を覚まし、窓からその家を眺めたことがありました。空き家になっているように見えたが、色々な影が見えたため、この家には昔、侍、もしかすると女性サムライが住んでいたということを想像しました。日本での多くの経験から刺激を受けた私が、新しい詩集A Samurai’s Pink House(「侍のピンクの家」)を作成することになりました。 JETプログラムの経験は私にとって、詩のインスピレーションをもたらしました。日本にいる間に、自分と同じように日記を書いたりして将来作家になる夢を持っている仲間とも出会うことができました。日本では、私の創造力と忍耐力が鍛えられました。その経験をより良い作家にしてくれました。

作家になるためには勇気と自制心が必要です。日本で英語を教えていた頃に、新しい言語の勉強で苦労したにも関わらず決して諦めない生徒から、また、長い時間をかけてレポートなどを採点したり、生徒を指導したり、部活の顧問をしたりした教師からは、毎日この勇気と自制心を実感することができました。教えることは書くことと同じように天職だと言えます。両方とも相手にインスピレーションを与えます。両方ともパッションと忍耐力が必要とします。他のことと同じように出版できるまで苦労して努力しないといけません。

私は、JETプログラムのおかげで、日本文化に没頭することができましたが、多くのJET参加者が過去でも今でも日本に刺激を受けているに違いありません。作家というのは非常に興味深いキャリアですので、もしあなたの日記も言葉でいっぱいになって、あなたの頭の中が、パソコンの画面を言葉で埋めるぐらいいっぱいになっていたら、本格的に書き始めることをお勧めします。そのため、まず時間を取っておきましょう。また、近所の図書館を訪れたら、文章などを書くための情報誌を手に入れることができます。私が特に気に入った本は、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」という作品です。これは村上の回顧録ですが、小説を書くことをマラソンを走ることにたとえています。執筆は確かに短いレースではなく、マラソンのようなものです。小説を完成させるまでに数年かかることもあります。

必ずしも必要だとは言えませんが、クリエイティブなライティング講座の受講も、作家としてキャリアを始める際に役に立つかもしれません。これらの講座が数多くの大学で提供されています。また、作家たちの中では、出版の世界にそのまま飛び込みたいと思っている人もいると思いますが、その場合、placesforwriters.comのリソースを活用するのがよいでしょう。原稿も募集したりしている、素晴らしいウェブサイトです。他のキャリアと同様に、執筆の実績の「履歴書」を作成することは、出版社や出版取次に原稿を提出することになったら、役立ちます。個人的には、Cha: An Asian Literary Journalというアジア文学誌(asiancha.com)やRicepaper Magazine(ricepapermagazine.ca/submission)などという雑誌に日本に関する作文を提出することをお勧めできます。

日本での経験は私にとって大切な宝物であり、詩の本に関して私を支えてくれた人に感謝したいと思います。もしかしたらあなたもこの宝物に出会うのでしょうね。そうならば、心から応援しますので、頑張ってください!

プロフィール
Sonia Saikaleyの新しい詩集「A Samurai’s Pink House」(「侍のピンクの家」)は、Inanna Publicationsによって出版されています。彼女の最初の小説「The Lebanese Dishwasher」(「お皿洗いのレバノン人」)は、2012年に「Ken Klonsky Novella」コンクールで共同賞を受賞し、また彼女の最初の詩集「Turkish Delight, Montreal Winter」(「ロクムとモントリオールの冬」)も、2012年に出版されました。オンタリオ州芸術評議会の助成金を受け、現在「Jasmine Season on Hamra Street」という新しい小説を書いています。Humber School for Writersの卒業生である彼女は故郷のオタワ市(カナダ)に住んでいます。 2007年から2008年までは、宮城県塩釜市で外国語指導助手を務めました。ウェブサイト: www.soniasaikaley.com

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