スポットライト02

  • HOME »
  • スポットライト02

スポットライト02
02:Stacey-Ann Witter

■ 職種:ALT(外国語指導助手)  ■ 都道府県:鹿児島県  ■ 参加年度:2005年~2010年  ■ 出身国:ジャマイカ

02:Stacey-Ann Witter

大学生なら誰でも、社会へ出るきっかけとなる「卒業証書」を受け取るのを待ち望んでいることだろう。2005年の5月、私はジャマイカで西インド諸島大学を卒業しようとしていた。しかし、卒業が近づくにつれ、だんだん怖くなってきた。就職に有利になるかということを考えず、自分の興味から人文学科を専攻していた私にとっては、残念なことに、専攻分野とは全く関係がない仕事をせざるを得ないとわかっていた。そんな2004年11月、新聞で在ジャマイカ日本大使館が出したJETプログラムの広告を見つけた。私も友人も、誰もJETプログラムのことは知らなかったが、とても魅力的に思えたし、アジア史の教授から参加して損はないと奨められた。

当時私がJETプログラムについて何も知らなかったとしても無理はなく、ジャマイカは2001年に参加国になったばかりで、参加者は毎年12名程度だった。ジャマイカに3つある大学にはどこにもアジア語系の学科は設置されておらず、日本語教育機関といえばキングストンにあるランゲージトレーニングセンターだけだった。ジャマイカはフランス語を話す国や、ヒスパニック系のカリブ諸島に囲まれており、高校や大学では外国語としてフランス語かスペイン語を勉強するのが一般的だ。一次選考の時ですら、日本での経験を教えてくれるような人はだれもおらず、心許なかった。

― JETになる ―

02:Stacey-Ann Witter

合格して大喜びしているとき、ふと、家族や親戚にまったく話をしていなかったことに気づいた。彼らは私がJETプログラムに応募していたことすら知らなかった。合格した今、日本に行くということを伝えるだけでなく、私の旅に賛同してもらう必要があった。

私はジャマイカの南にある、最も詳細な地図にも載らない小さな村に生まれ育った。家族にとっては、私がほんの3時間ほど離れた首都の大学に行くというのでも別れがたかったようだ。しかし今、地球の裏側にある東アジアの国に向かおうとしており、しかも1年もの間だということを伝えねばならない。話すのが待ち遠しい、とはとても言えなかった。

その夜、食卓はまるで法廷のようだった。親戚たちの議論は私の予想通りだった。日本語も話せない、日本人と働いたことも英語を教えたこともなく、自分がマイノリティとなる場所で暮らしたこともない。法廷全体から有罪を告げられたようで、私が今にも降参しようかと思ったその時、家長である曾祖母が立ち上がり、一同は沈黙した。曾祖母は私を見て、にっこり笑って次のように言った。「この子にジャマイカ料理を教えてあげるのにまだ4ヶ月あるし、それで間に合わなくても、じきに上達するでしょう。」数週間後、叔母がジャマイカの地図をくれた。私の育ったリッジ地区のある場所に印が付けてあり、それは私が思っていたとおりの場所だった。家族が自分の決定に賛成していてくれるというのはありがたかったし、これから数ヶ月の大変な時期には、彼らが頼みの綱になるはずだった。

― 鹿児島のジャマイカ人 ―

02:Stacey-Ann Witter

鹿児島は日本の南にあり、ゆったりとした時間が流れ、せかせかしていないところが一つの魅力だ。桜島の火山が成長を続ける街の美しい背景を成している。鹿児島の人々はとてもフレンドリーで、良く助けあい、のんびりと暮らしている。

2005年6月、JETプログラムに初めて参加したジャマイカ人は、鹿児島に配置された。その年は街で唯一のジャマイカ人として私には面白い年になった。鹿児島にはレゲエ・バーが二つあるが、そこに足を踏み入れたジャマイカ人は私が初めてだった。人々は、私がジャマイカから来たと言うと、踊ったり歌ったり、ものすごい速さで走ることができるのだろうと考える。ステレオタイプはいつも悲しいものだが、私の場合はまさにそれが当てはまった。ジャマイカ人は一般的にはリズム感が良いが、人によって差はある。私は多少踊ることはできても、そのアーティストが悪い例を見せたいと思わない限りは、レゲエのミュージック・ビデオに出ることはないであろうレベルだ。とにかく、ずっと上手な友人たちが側にいない以上、少しお酒を引っかけてからどんな風に踊るかを教えたりした。まったく日本語が話せなかった初めのころ、今は親友の日本人の友人と私との距離を近づけたのはレゲエだった。また、買い物に行って何も買えなかったときにレゲエ・バーに行って、服のサイズを見つけるのが大変だと嘆いたりした。私が困っていること、例えば服のサイズが見つからないことや、髪がうまく整えられないことなどは全て、私を特別なものにしてくれた。私はできるだけこのネタを使い尽くそうとした。だから「私が10号の靴を履いていることについてどう思う?」と聞いてみたりした。すると彼らは酷い顔をして、さらにお酒を注文するのだった。

人生って面白い。日本に来て、自分の文化についてより多く学ぶことになるなんて、思ってもいなかった。くるくる回しながら万華鏡を覗きこんでいるように、様々な角度から物事を見られるようになって、今私はジャマイカ人であるということの意味を前より深く理解し、認識していると思う。

― 面接での質問への答え ―

04:Stacey-Ann Witter

いろいろと経験したことで、私の粘り強さは増し、ずっと大人になれたと思う。2年前に面接を受けたときの私とはもう違う。JETになるということがどういうことか、今はわかっている。あの頃は、ALTになるということは学校に行って日本人の英語の先生のアシスタントをすることだと思っていた。でもそれはALTになるということのほんの一部であり、教える対象は学校の生徒たちをだけでなく、(知らず知らずの内に)地域全体にまで拡がることがある。ほぼ毎日私や私の母国について純粋に知りたがっている人々に出会うのだ。また、黒人に会うのは私が初めてという人が鹿児島には沢山いたし(テレビを除いて)、ジャマイカをアフリカにある国だと思っていたり、国自体を知らないという人も沢山いたりした。あの面接での質問に、今なら優等生のように手を挙げて答えたい。「大学を卒業してすぐに、ジャマイカを離れて日本へ旅立つということは、国をないがしろにすることではありません。むしろそのことによって、新しく出会った人たちにジャマイカの文化やジャマイカ人の良い所を教え、ジャマイカの良いイメージを持つことに貢献できます。これまでに、学校や県や市町村から国際交流イベントへの参加を依頼され、ジャマイカの文化や料理についてのプレゼンテーションや展示、ファッションショー、パフォーマンスや料理教室を行ってきました。誰かに自分の文化について伝えたり否定的な偏見を打ち破る機会があったということは、日本で自分がしてきたことのなかでも最も素晴らしいことです。」

私はもう前とは同じ人間ではない。日本での経験によって自信がついたからだ。ジャマイカの田舎に帰るときには、時間や距離によって薄れたりはしない友情についてたくさんの土産話を持ち帰ることができる。でも、一番大事なことは、自分たちのコミュニティを出て、未知の世界へ飛び立とうとする人の前例になるということだ。

ここまで読んでくださった方々、私の経験を共有することができてとても嬉しいです。このエッセイは、日本へ来たことは私の人生にとって最も素晴らしい出来事だった、という一文で表すことができるかもしれません。しかし、人生で起こる素晴らしいことがたいていそうであるように、それを見つけるためには、これまでに人が通ったことのない道を歩まなければならないのです。

その他のスポットライト
PAGETOP
Copyright 201a5 by the Council of Local Authorities for International Relations (CLAIR)