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JET Streams – Spring 2017

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JET Streams
 
 

2017年JET Streams春号

 
JETふるさとビジョンプロジェクト参加者募集開始!

JETプログラム事業部 CLAIR東京

image-jp第二の「ふるさと」へビジョンを伝えよう!

元JET参加者の皆さん!第二の「ふるさと」の力になりたいと思いませんか?

「JETふるさとビジョンプロジェクト」では、元JET参加者の皆さんが日本に「里帰り」をし、JETプログラムで紡いだ「絆」を再確認するとともに、皆さんが帰国後に身に着けたスキルや人脈を活かし、元任用団体等の「地域活性化等に寄与する企画」を実施できます。

応募方法や詳しい内容は下記URLをご参照下さい!たくさんのご応募をお待ちしております!

URL:jetprogramme.org/jp/info/furusatovision/

締切:5月8日(月)午前9:00(日本時間)

 

 
JETAAフランス会長、フランスJETを訪ねて

オレリー・ノエル、元茨城県CIR、2010年~2013年、フランスJETAA会長

フランスJETの4つのキーワード

~「ぺらぺら」話し、「どんどん」慣れ、「てきぱき」働き、そしていつも「にこにこ」すること!~

※副題は「モーゼの十戒」のフランス語での表現をモチーフにしています。

昨年、JETプログラムは30周年を迎え、2016年11月に開催された30周年記念式典に、私はフランスJETAAの国代表として出席しました。2018年のフランスJET30周年に向け、「フランスJET」たちの現在とその後の活躍に改めて光を当て、フランスJETの活性化につなげたいとの思いから、現役JET参加者やJET経験者の方々にインタビューを行っています。今回は記念式典の機会を捉えて、日本で現在活躍している現役のJET参加者3人にインタビューしました。フランス人JET参加者は彼らのさまざまな経歴や経験だけでなく、彼らが日本で任される仕事の内容からみても、他の国からの参加者とは異なる特徴があります。少なくとも4言語を理解することができるということです。それは、母国語であるフランス語、英語、全ての中学校において14歳から学ぶ他のヨーロッパ言語(イタリア語、スペイン語、ドイツ語あるいはロシア語)、そして大学で集中的に学ぶ日本語です。彼らの多くは大学で日本語を専攻しており、そのレベルは日本語能力1級または2級に相当します。

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富岡市長がセラドン銅工場(アン県)を訪問した際のダミアンの通訳風景(2015年11月)(中央)

最初に、群馬県富岡市CIRのダミアン・ロブションの例を紹介します。ダミアンはフランス国立東洋言語文化研究所で日本語を学びました。富岡市がフランス人CIRを活用するのが2013年からでした。富岡製糸場が2014年にユネスコ世界文化遺産に登録されたことは、市の観光業に大きな発展をもたらしました。ダミアンの最初の仕事は、富岡製糸場で毎年開催される資料展のための文献の調査と翻訳作業でした。2015年には、在リヨン日本領事館と共催の展示会「絹が結ぶ縁(SOYEUX DESTINS)」がリヨンで開催され、2016年には、前年にフランスのブール・ド・ペアージュ市と友好都市を締結したことを記念した企画展「ブール・ド・ペアージュ展~周辺地域の歴史的産業に光をあてて」が富岡市で開催され、それぞれの事業の準備において、ダミアンはフランスの美術館の所蔵品の借入れなどさまざまな仕事に携わりました。

さらに2014年の夏には、貴重なプロジェクトに参加する機会がありました。NHKワールドで放送されている、外国人の視点から日本の新たな魅力を発見する旅番組「Journey in Japan」において、富岡製糸場について«Tomioka, Cradle of Japan’s Modernization(富岡、日本近代化の礎 )»という30分の英語による特集番組が組まれ、ダミアンはこのプロジェクトで、監督と密接に協力し、撮影の準備や台本の作成にとどまらず、レポーターを務めるとともに、1872年に富岡製糸場の建設・運営を指揮したフランス人ポール・ブリュナを演じたのです。この忘れがたく非常に有意義な経験は、JET参加者が一般的に持っている適応能力を証明し、またJET参加者が仕事を通じて成長し能力を向上させているということをよく現していると思います。

翻訳者、通訳者やトリリンガルの俳優などとして活躍しているフランス人CIRにとって毎日多様な活動を行っています。次に紹介する、茨城県で2013年からCIRとして働くルドヴィク・デピノもそのことを経験しています。彼は茨城県国際交流協会と茨城県国際課の両方に勤務しています。ルドヴィクはトゥールーズで生まれ、最初は神経科学を学び、その数年後に日本語を学び、2009年には東京の中央大学に1年間留学しました。ダミアンと同様、ルドヴィクも県からの翻訳、通訳、訪問団の対応などの依頼に応えなければなりません。しかしその中で、彼は国際文化理解の促進を担い日本文化に精通しているという立場から、新しいことに取り組んでいます。

ヴァロー・ベルカセム国民教育・高等教育・研究大臣(中央右)一行来日時に通訳をするルドヴィク(左)

まず、ルドヴィクは国際交流協会が主催する「世界文化セミナー」という茨城県在住の外国人による講演会を半年間で十数回主催していますが、新しい講師を見つけるのも彼の仕事です。このセミナーを通して、茨城県民は他国の文化をよりよく学ぶことができ、参加者が毎週異なるテーマについて英語で意見交換を行う場にもなっています。また、ルドヴィクは県内の小学校を定期的に訪問しながら、フランスの文化の普及や、先入観をなくすことに取り組んでいます。それから、茨城県の外国人住民への支援の一環として、ルドヴィクは日々の生活において問題に直面して茨城県国際交流協会に連絡してくる人々に対する案内や相談業務に関わっています。複数言語での電話や訪問による相談サービスは、平日毎日行われています。JETプログラムに参加することは、広い意味で地域社会に貢献しているのです。

料理教室でフランス家庭料理を教えるアリス(中央)

最後に紹介するアリス・パッキエは、ルドヴィクと同じ茨城県にある北茨城市で現在CIRをしています。多くのJET参加者と同じように、幼い頃から日本のポップカルチャーを通じて日本に興味を持ち始めました。フランスは、日本のアニメや漫画の消費が世界トップ3に名を連ねる国なのです。アリスは、国際関係を学んだ後、1年間の日本への交換留学と1年間のアメリカでのフランス語教師としての勤務を経験し、その後2013年から2016年までCIRとして栃木県那須塩原町で3年間勤務しました。アリスのCIRとしての仕事は、ダミアンやルドヴィクと同様に非常に多岐に渡りますが、それに加えて子どもたちや高齢者向けに、数多くのイベントや授業を担当しました。またアリスはいろいろな活動を試したり、地元のラジオ局のために栃木県に関わる人達と会ったり、とてもユニークな経験をしました。これで、フランス人JETが、日本のレポーターとしてまた新たな役割を果たしているのは言えるでしょう。

彼女は今、「Life in Kitaibaraki」というFacebookページを介し、茨城県の特徴をフランス人の視点から紹介するという新たな活動に取り組んでいます。

今回は、フランス人ALTへのインタビューは行っていませんが、全員がフランス語講師資格FLE(英語講師資格のESLと相当するもの)を取得しており、また彼らの中にはフランス語だけでなく英語を教える語学力と指導力がある人もいます。

今回紹介した3人の話は、JETプログラムにおける経験が多彩であることを示しており、日本の地域社会にとってJET参加者が非常に重要な役割を担う切り札であると改めて感じました。

profil-photoaurelie-noelプロフィール
フランス・ピカルディ地方出身です。パリ第三大学でイタリア語を学び、パリ第七大学で日本語を学んだ後、東京の語学学校で3年間フランス語を教えました。2010年から茨城県のCIRとして3年間勤務し、フランスJETをサポートするグループリーダーも務めました。2016年からJETAAフランス会長に就任しました。危機管理マネージメントの修士号を取得し、現在は世界銀行でコンサルタントとして勤務しています。日本語と伝統行事をこよなく愛しています。

 

 
終了前研修に招待されて ―JETプログラムを終え、ゲーム業界に就職した今、懐かしく振り返る―

ルーク・バレンタイン、元栃木県ALT、1996年~1998年

私のJETプログラムでの経験は人生における最高の経験の一つでした。私の人生観が変わるほどの影響を与え、学びの多い時期でした。当時の経験は、20年が経った今でも、私のデンマークでの日常生活に影響を与え続けています。今から考えてみると、プログラムに申し込むこと及び参加に合意するという決断は人生の中で最も良い決断の一つでした。大学で学士号を取得することによってJETプログラムに参加することが可能になりましたが、振り返ってみると、大学で学んだことよりも、日本での経験の方が良い勉強になりました。その上、大学と違って給料と家賃の補助などもありました。JETとして働いていた田沼高校でお別れの挨拶を告げた時に、生徒達に対して十分に力になれたかどうか反省し、私はさてJETプログラムにおける「交流」に寄与しているか疑問に思っていたことを今でも覚えています。なぜなら、私は「あげた」ことよりも一方的に「得た」ものの方が多かったからです。

日本で暮らしていた頃、日本が経済的に豊かで十分な機会に溢れていた1980年代のバブル経済崩壊前の懐かしい話をよく聞きました。とはいえ、振り返ってみると1990年代も十分豊かな時代だったと思います。来日時にビジネスクラスで乗ってきたり、JETの研修で温泉地に行ったりすることもありました。一番記憶に残っていることは、当時、神戸市で開催されたJET再契約予定者研修会で、その時群馬県のカナダ人ALTとして働いていた、現在の妻と出会ったことです。現在、子供2人とコペンハーゲンに暮らしています。私たちの会話でよく出てくる場所なので、子供たちは大変日本に興味を持ち、さらに私たちから日本語の単語を少し覚えました。ある意味で、私たちの子供は「JETキッズ」と言えるでしょう。JETプログラムは40周年を迎えられれば、自分の子も参加者になるかもしれません。

終了前研修の開始を待っているJET参加者

私が参加した時に存在していなかった研修の一つに、終了前研修があります。これはおそらくプログラムの成長の証なのでしょう。現役参加者が抱えているJET終了後に関する悩みは、紛れもなく私たちが20年前に感じていた悩みと同じです。20年前、ジャパン・タイムの新聞で見た求人に応募したり、手書きで履歴書を作成しFAXで送ったりしていた当時の私は、もし終了前研修で元JET参加者からアドバイスを受けたりキャリアフェアに参加したりできれば、どんなに助かったのでしょう。

今年の2月に横浜で開催された終了前研修に講師として招待されることは、大変喜ばしいと共に名誉なものでした。2000年12月に日本を離れ、またゲーム業界で18年間働いてきたので、研修の礼儀正しい様子に感銘を受けました。出席したJET参加者は皆スーツを着て、礼儀正しくて、私のことをいつも「ミスター・バレンタイン」や「先生」と呼んでくれました。終了前研修は私にとって非常に懐かしい経験でした。嬉しいことに、数多くの現役JET参加者と交流ができました。彼らはみんな熱心できっとJETプログラム終了後にも大活躍するでしょう。2日間の研修を終えて、私は、プログラムの現在の様子や変わったところ、そして変わっていないところが分かりました。ゲーム業界に関するワークショップも非常に楽しく行えました。私が勤務している会社はスクエア・エニックスの傘下企業であるため、日本滞在中のおまけとして、新宿にあるスクエア・エニックス本社を訪れることができました。

JET参加者と交流している様子

ついに日本に戻れて大変嬉しく、とても楽しい時間を過ごせました。日本を離れることを思い悩んでいる現役参加者の皆さん、日本はいつまでも貴方にとって大切な場所であると思います。JETプログラムでできた友達と今でも連絡を取り合っています。友達は皆、日本に残ったり、帰国したり、第3の国に行ったりしたにもかかわらず、面白くてやりがいのある仕事をしています。JET参加者としての最後の数か月で、先を見通すことが難しいと思いますが、皆さんはきっと人生をかけてやり甲斐のあるものを見つけるでしょう。色々よく調べたりし、たくさん質問し、そして、最後の数か月を十分に満喫してください。いつまでもJETの経験を大切に思うでしょう。

 

プロフィール
ルーク・バレンタインは1998年の夏にJETプログラムを卒業しました。上京した後、イーストウエストコンサルティングという人材紹介会社でビジネス英会話講師として就職しました(他の仕事が見つかるまでの一時的な勤め先でした)。ゲーム業界へ転身するきかっけとなったのはジャパンタイムズ新聞で見た株式会社セガの求人でした。1999年初頭から2000年末まではいわゆる「ドリームキャスト(ゲーム機)の時代」でしたが、セガという企業でゲームのローカライズ業務に携わりました。2000年末に日本を離れ、旅行をした後、2001年11月にイギリスに戻り、アイドス(イギリスのゲーム会社)でアソシエートプロデューサー(制作副担当者)として就職しました。数年が立つとプロデューサーに昇進し、それから2008年にコペンハーゲンにある「Io-Interactive」という子会社へ異動した後は、現在まで働いています。2009年にアイドスはスクウェア・エニックス傘下となりましたので、現在、日本企業の海外支社で働いているということになりました。

 

 
カナダでの和太鼓グループの活躍について「Arashido Taiko(嵐道太鼓)」を設立したエレズ・ヴァンハムにインタビュー

JETプログラム事業部 CLAIR東京

嵐道太鼓の熱心な演奏の様子

1) 簡単な自己紹介とJETに参加していた際に経験されたことやカナダに帰国後のことをお聞かせください。

私は、大学では英文学を専攻し、副専攻はコンピューターサイエンスでした。大学を卒業する半年程前のこと、JETプログラムの広告を目にした母から興味はないのかと聞かれました。たまたまこの小さな広告を目にしたことが、私の人生を変えることになったのです。

私はJET参加者として3年間を過ごした秋田県が大好きになりました。その間、「教えたこと」よりも「学んだこと」の方が恐らく多かったのではないかと思います。少林寺拳法(シャオリン・カンフーに基づく日本の武術の1つ)を習い、初段(黒帯の初級)を取得しましたし、日本語や日本の文化、芸術、スポーツについても学びました。そして何よりも、日本の人々について知り、生涯の友人たちを得たのです。

JETを終えた後はIMBA(経営学修士号)を取得するために大学院へ進みました。そのプログラムの中で、インターン生として、また交換留学生として再び日本を訪れることができました。大学院卒業後は、大手のグローバル企業で働くために日本へ戻りました。つまり合計で3度日本に住み、通算で約6年間を過ごしました。

日本を去ってからも、日本で数多くのビジネスに携わる機会に恵まれ、日本国内の旅行も沢山しています。実際2015年には、7度も日本を訪れました!これからも日本企業と関わっていくでしょうし、それは紛れもなく、JETプログラムが私を日本に引き寄せてくれたからに他ならないのです。

2) いつ、どのようなきっかけで和太鼓に取り組み始めたのですか。

和太鼓を初めて知ったのは、秋田を訪れ、竿燈まつりを観たときでした。もともとアマチュアのドラマーでしたので、和太鼓の多彩な合奏スタイルに大変興味を惹かれました。地元の神社(彌高神社)の太鼓グループを紹介され、3年間を共にしました。そして、竿燈祭りを含む数多くのお祭りで演奏する機会を得ました。

東京に住んでいた頃も、和太鼓が無性に恋しくなり、参加できるグループを探しました。日本最大の祭りの一つである浅草の三社祭に行き、エネルギーと情熱と力がみなぎるすごい「はなぶさ太鼓」というグループに出会いました。歌声が素晴らしい上にバチをジャグラーのように投げる技を持っていたのです。パフォーマンスが終わった後に、仲間に入れてもらえないかと頼んだところ、快諾してもらえました。私は、早速その週の練習に参加しに埼玉までいきました。私が現れると、来ないと思っていたようで一様に驚いた表情をしていました。けれども、このグループとも2年間を共にし、三社祭でパフォーマンスを披露することもできました。練習はとてもきつく、時折手にはまめができ、そのまめが破れてバチにも血がついたりしましたが、そこまで頑張れた自分に誇りも感じています。

日本を離れトロントに戻った後、和太鼓が本当に恋しくなりました。そして、いくつか地元グループへの参加を経た後、「嵐道太鼓グループ」を結成しました。今では10年余り活動を続けており、コマーシャルや大小さまざまなイベントへ出演したり、自分たちの教室のレッスンを通じ、数多くの子供や大人に太鼓を教えたりしてきました。

3) 「嵐道太鼓グループ」について詳しくお聞かせください。(太鼓の種類、太鼓教室、メンバー、活動状況等)

嵐道太鼓グループは、アマチュアグループとして活躍しています。Arashidoとは「嵐の道」を意味し、私たちが音楽づくりをする上で大切にしているパワーと情熱を込める姿勢を示しています。前向きな姿勢を持ち、少し能力のある方ならどなたでも大歓迎です。構成メンバーの入れ替わりはありますが、常時8~10名程度で活動しています。私たちの使命は、大太鼓の演奏を楽しみつつ、太鼓や日本文化の普及していくことです。結婚式に呼ばれて演奏することもあれば、小規模な商業イベントや大きなお祭りに行くこともあります。慈善コンサートでは無償で演奏し、地域に恩返しするために毎年まとまった額の寄付もしています。

嵐道太鼓は普段和太鼓のみの曲を演奏しますが、たまに現代的な洋楽曲とアレンジし演奏する時もあります。そして、やぐら台の上で演奏者が太鼓を打ち、その周囲を踊り手が踊る(盆踊り)などの伝統的な曲も演奏します。

いつも観客には、「私たちは、あなた方の今までの経験の中で最も音が激しいアコースティックバンド」だと言っています。それと和太鼓はグループと共に演奏する芸能であることを強調します(一人で演奏するのは困難です)。和太鼓という音楽芸能は半分魅せるものであり、そして半分は聞かせるものであるため、演奏中の体の使い方と見せ方(フォーム)は音楽と同じほど大切です。

4) カナダで太鼓グループを設立したり、メンバーを集結したりするのは難しかったのですか。どこで和太鼓を購入しましたか。また、保管する場所を詳しくお聞かせください。和太鼓の先生はいますか。あるいは一人で練習しますか。

和太鼓グループは、やりがいのあるものであっても、設立が難しかったです。トロントにおける他グループはスポンサーや政府などの資金をもらって活躍していますが、嵐道太鼓グループは私費を募って始まり、やがて、演奏の報酬で運営できるようになりました。グループは、私自身が買った太鼓と、3人のメンバーで始まりました(自分、もう一人の元JET参加者、そして当時の彼女(現在は私の妻です。))。そして、JET経験者のコミュニティでの口コミを通して、少しずつメンバーの数を増やしてきました。

私たちの太鼓や道具はすべて日本で購入してから、飛行機での手荷物としてもって帰りました。一番大きい太鼓は直径1メートルで、持って帰るのは本当に冒険のようでした。重さは32キロ、台の重量は64キロです。そこで32キロずつのパーツに分けて、ヴァンを借りてから、成田空港まで運転して、荷物を飛行機に載せてもらうために何人を説得する必要がありました。

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「演奏直後に汗を流し、息を切らせている状態になっていなければ、十分な演奏をしたとは言えません。」

今年で9年目になりますが、近所にある小学校で練習し、学校の倉庫で楽器を保管しています。通常、新規メンバーはウェブサイトを通して入会していいて、皆が何かしら新しい風を吹き込んでくれるので、グループは年々進化してきました。

一応私はグループのリーダーですが、皆はお互い助け合い、打ち方を教え合って向上しながら、嵐道太鼓を発展しています。

5) 出演するイベントをどうやって探すかお聞かせください。一般の観客の様子を教えてください。カナダで和太鼓はどんなふうに受け入れられていますか。

逆にイベントに呼ばれている方です。メンバーが作ったウェブサイトが嵐道の最強な宣伝ツールであり、太鼓に興味を持っている人と繋がるために不可欠です。

カナダで和太鼓はまだ普及されていないので、一般の観客にとって私たちの演奏を聞くのは初体験です。しかし、演奏を観ると…感動を受けているようです。観客を魅せるために、いつも情熱的で、力強く、感動する演奏になるように努力しています。演奏直後に汗を流し、息を切らせている状態になっていなければ、十分な演奏をしたとは言えません。

6) 嵐道太鼓グループでの最もよい経験について説明してください。

太鼓を演奏するうえで間違いなく最高のところは、情熱的で才能のある素晴らしいメンバーと共に過ごせることです。平日も休日も、一生懸命練習しながらも楽しく過ごしています。嵐道は家族のようなものです。

演奏に関しても、たくさんの大変素晴らしい体験を得ました。あるときはカナダのユニクロ店舗の初オープンで(しかもユニクロ創立者兼CEO、柳井正氏の前で)演奏し、またあるときは北米最大規模の大道芸人の祭り「BuskerFest」で何千人の前で演奏しましたし、自分の子供の保育園でも演奏しました!演目に夢中の観客の前で太鼓を打つ気分は楽しくて、楽しくて、はまっています!

7) JET Streamsの読者へのメッセージがありますか。

自分にとって最高に良いことは、興味あることに夢中になって取り組むことです。情熱を注ぐものを発見し、それに時間を費やすことです。それがあなたの一生をかけた勤めとなり、人生の足場となって、あなたを幸せに、健康にするかもしれないのですから。

嵐道太鼓のホームページ:

www.arashido-taiko.com

 
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